田舎
〜中編〜

ふいにCoCoさんが川縁で声をあげた。

「これって、なんだろう」

そちらを見ると、水面からわずかに出っ張っている石にへばりつくように、白いものがある。近寄って来た京介さんが無造作に指でつまむ。それは水に濡れた紙のように見えた。あっ、と思う間もなくその白いものが千切れて水に落ち、流されていった。指に残ったものをしげしげと見ていた京介さんが、

「紙だ」

と言う。

「目がある」

そう続けて、残された部分にあるわずかな切れ込みを空にかざした。たしかにそこには二つぽっかりと穴が開き、それまるで生き物の目を象っているように見えた。

「よくそんなの触れるな」

師匠がざぶざぶと川から上がりながら言う。京介さんの視線が冷たく移り、何も返さずにその白い紙を水に投げた。紙は沈みそうになりながらも流れに乗った。 全員の視線が自然とそこに向かう。

下流で、藪の影が落ちているあたりを通り過ぎるとき、あの「手」がもう見えないことに気がついた。まるで溶けるように消えてしまっていた。

持参していたタオルで体を拭いて、俺たちは河原を出た。冷たい川の水に浸かったことで、さっきまでのまとわりつくような熱い空気が嘘のように霧消して、涼しいくらいだった。けれどそれも一瞬のことで、歩き始めるとすぐにまたじっとりと汗が浮き出てくる。

車に戻る前に寄り道をして、近くの商店でアイスを買った。店のおばちゃんは見知らぬ若者たちを不審そうに見ながらも、棒アイスを4本出してくれた。

そういえば今日は平日なのだった。まして若者の極端に少ない過疎の村だ。小さい頃、何度かここでアイスを買っただけの俺の顔を覚えていないのも無理はなく、よそ者が来たという程度の認識しかなかっただろう。開いてるのかどうかもよくわからない店が3、4軒並んでいるだけの、道端のささやかな一角だった。

食べながら帰ろうというみんなに、ちょっと待ってくださいと言いながら俺は店のおばちゃんに

「この先の河原って、最近水難事故かなにか起きましたか」

と聞いてみた。おばちゃんは眉をひそめ、

「最近はないねえ」

とだけ言って次の言葉も待たず店の奥に引っ込んでいった。

ああ、俺もすっかりよそ者なのだなぁと、少し寂しくなった。

その後、アイスをかじりつつ元来た道を歩きながら師匠が言う。

「あの紙は幣だね」

たぶんそうだと答えた。神様や悪霊を象った紙人形とでも言えばしっくりくるだろうか。この村では、さまざまな儀式にその幣を使う。

「なんの幣だった?」

遠目に見ただけだし、目がふたつ開いてるというだけではさっぱりわからない。なにより俺自身が詳しくない。

「川ミサキか、水神かな」

師匠はさらっとそう言う。どこで調べたのか知らないが、俺より知っていそうな口ぶりだ。

日が翳り始めた道をだらだらと歩いていると、さっきの四つ辻に差し掛かった。すると、まるでさっきの再現のように京介さんが短い声をあげて道に屈みこむ。さすがに驚いて大丈夫ですかと様子を伺うと、手で押さえている右のふくらはぎから薄っすらと血が流れているのが目に入った。

CoCoさんがしゃがみこんで

「なにかで切った?」

と聞いている。京介さんは首を横に振る。

切ったって、いったい何で?

俺は周囲を見渡したが、見通しもよく、なにもない道の上なのだ。

カマイタチ。

そんな単語が頭に浮かんだが、師匠が道の真ん中に両手をついて這いつくばっているのを見て、一瞬で消える。目を輝かせて、まるでコンタクトレンズでも探すように土の上に視線を這わせている。

なにをしてるんですか。

その言葉を飲み込んだ。周囲の空気が変わった気がしたからだ。

足元から、ゆらゆらと悪意が立ちのぼってくるような錯覚を覚えて、身を硬くする。

「おい、よせ」

京介さんは羽織っている上着のポケットから小さな絆創膏を取り出してふくらはぎに貼り、立ち上がりながらそう言った。師匠はそれが聞こえなかったように地面を食い入る様に見つめ、独り言のように呟く。

「なにか、埋まっているな、ここに」

心臓に悪い言葉が俺の耳を撫でるように通り過ぎる。京介さんが師匠に近づこうとしたとき、チリリンと耳障りな音がして自転車が通りがかった。泥のついた作業着を着込んだ中年の男性が、不審そうな目つきでこちらを見ている。同じ方角からは似たような格好をした数人が自転車で近づいてきている。

四つ辻の真ん中で這いつくばっていた師匠は、なにを思ったかピョンと勢いよく立ち上がると

「腹減った。帰ろう」

と言った。

俺は気まずい思いで道をあけて自転車たちをやり過ごす。通り過ぎた後も、ちらちらと視線を感じた。

ヨソモノヨソモノ。

そんな声が聞こえた気がした。それも含めて、俺は早くここを立ち去りたかった。

率先してもと来た道へ進んで行き、民家のそばに停めてあった車に乗り込む。ようやく嫌な感じが収まった。

師匠は上機嫌でエンジンをかけ、ふたたび蛇行する山道を登り始める。CoCoさんはなにを思ったか京介さんの絆創膏をつっつき、

「痛いって」

と怒られた。

(ほんとうに傷口があるのか確かめた)

助手席に身を沈めながら、後部座席のやりとりにふとそんなことを思う。ミラーにうつるCoCoさんの表情からはやはりなにも読み取れなかった。

伯父の家に帰ると、従兄妹のハツコさんが来ていた。伯父夫婦の長女だ。年が離れていたのであまり印象は残っていないが、今は同じ集落の家に嫁いでいるらしい。

「今日は応援」

と言って小太りの体を機敏に動かしながら、伯母の炊事を手伝っている。俺たちはというと、夕飯までの時間をそれぞれの部屋で過ごした。ろくに泳いでいないのに俺はやたら疲れていて、ウトウトしっぱなしだった。

ほどなく茶の間に呼ばれ大所帯での食事が始まった。近くの山で採れた山菜をふんだんに使った田舎料理は、実家の母が作るものより「お袋の味」がして、なんだか感傷的になる。

俺たち4人と伯父夫婦。ハツコさんとその小さな子ども。そして実にタイミングよく現れたユキオ。9人で囲む食卓だった。なにが凄いって、その人数で囲めるちゃぶ台があることだ。

「いまはもう、こんなでっかいのがいる時代じゃないけんどのう」

と伯父は苦笑した。この家にはあと一人、ジッサンと呼ばれるお爺さんがいるのだが、寝たきりに近いらしく食卓には出てこない。ジッサンと言っても俺の祖父にあたる人ではなく、祖母の兄らしい。らしいというのは、会ったことがないからだ。身寄りがなくなっていたところをこの家で引き取ったそうだ。俺の足が遠のいてからのことだった。

「にゃあにゃあ」

ユキオがひそひそと口を寄せて来る。

「どっちが彼女なが」

これには彼なりの期待も含まれているのだろう。京介さんCoCoさんも一般的には美人の部類に入るだろうから。

「どっちも違う」

そう言うと喜ぶかと思いきや、残念そうな様子で、

「両方あの兄さんのか」

と溜息をつくのだ。

「片方だけ」

と言ってやると、

「ふーん」

と鼻で返事をしながら肉系ばかりを箸でかき集めていった。

続く
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