田舎
〜中編〜
その時、家の外に犬の遠吠えが響いた。
「あ、リュウの晩御飯忘れちょった」
そう言って伯母が腰をあげようとするとハツコさんが笑って先に立ち上がった。俺はふと思い出して、伯父に祖母の葬式の時にリュウがいたかどうか聞いた。
「おらんかったかや」
伯父が首を傾げていると伯母が手首から先を器用に折り曲げながら言う。
「ほら、ジッサンが捨てたあとじゃき」
伯父はオオ、と合点していきさつを話してくれた。どうやらリュウは祖母の葬式の2ヶ月ほど前に「死んだ」のだそうだ。目をとじて動かないリュウを見て、まだ足腰がしゃんとしていたジッサンが死んだ死んだと大騒ぎし、裏山の大杉の根本に埋めに行ったのだが、なんとこれが早合点。自力で土から這い出てきたらしく、半年くらいたって山中で野良犬をやっていたところを近くの集落の人が見つけて連れて来てくれたのだそうだ。
この話、俺の連れには大いにウケた。が、俺は
(なんだ、やっぱり別の犬なんじゃないか)
と思ったが、長年暮らした家族がリュウだというんだから、と考えるとなんだかあやふやになる。あとでもう一度じっくり顔を見てみようと心に決めた。
それから目の前の料理が減るのに反比例して食卓の会話が増えていき、俺は頃合を見計らって、口を開いた。
「なんか、いざなぎ流のことを知りたがってるみたいなんだけど」
目で師匠と京介さんを指す。するとすぐさまユキオが身を乗り出した。
「だったらオレオレ。オレ今、先生について習いゆうがよ」
意外に思って、適当なコト言ってないかコイツ、と疑った。すると伯母が
「あんたは神楽ばあじゃろがね」
と笑う。どうやら先生についているのは本当らしい。ただ、神楽舞を習っているだけのようだ。いざなぎ流の深奥は神楽ではなく、祈祷術にあるというのは俺でもわかる。
「まあでもいざなぎ流のことが知りたかったら、誰かに聞かんとわからんき」
ユキオの先生に会わせてもらったらどうか、そう言うのだ。伯父のその言葉は、いざなぎ流の秘匿性を端的に表している。そもそも俺の田舎に伝わるいざなぎ流とは、陰陽道や修験道、密教や神道が混淆した民間信仰であり、それらが混じっているとはいえ、古く、純粋な形で残っている全国的に見ても貴重な伝承だそうだ。祭りや祓い、鎮めなどを行うそのわざはしかし、ほとんど公にはされない。なぜならそれらは「太夫」から「太夫」へ、原則口伝によって相伝されていくからである。もちろん、その膨大な祈祷術体系を丸暗記はできない。しかしそのための「覚え書」はまた、師匠から弟子へと門外不出の「祭文」として伝えられるのみなのである。
なにかのお祭りには必ずと言っていいほど太夫さんが絡むが、俺の記憶の中ではその祈祷はただ「そういうもの」としてそこにあるだけで、「何故」には答えてくれない。「何をするために、何故その祈祷が選ばれるのか」何をするためにというのは分かる。川で行われるなら水の神様を祭り鎮めるためで、家で行われるなら家の安泰のためだ。だが「何故」その祈祷なのか、という部分には天幕がかかったように見えてこない。祈祷はさまざまな系統に分かれ、使う幣だけで数百種類もあるのである。
「よっしゃ、明日さっそく行こう」
ユキオは箸をくるくると回して俺たちの顔を見る。師匠は願ってもない、と頷いた。京介さんは
「頼みます」
と軽く頭を下げる。
俺は明日も平日だったことを思い出し、ユキオをつついたが
「大丈夫、大丈夫」
と請合った。いろいろと大丈夫な職場らしい。
ユキオとハツコさんたちが帰っていったあと、俺たちは順番に風呂に入ることにした。夜になってようやく涼しくなってきたが、汗を重ねた肌が気持ち悪い。女性陣はあとがいいと言うので、まず俺、ついで師匠という順番で入ることにした。
早々に俺が風呂からあがり、3人でトランプをしているとTシャツ姿で頭から湯気を昇らせながら師匠が出てくる。
「あー、気持ちよかったー。風呂に入ったのって半年ぶりくらいだ」
その言葉に女性二人の目が冷たくなる。
「ちょっと」
「寄らないでくださる」
ステレオで言われ、師匠は憤慨する。
「って、おい。僕はシャワー派なんだって」
弁解する師匠に冷たい視線を向けたまま二人は女部屋に戻っていく。
「知ってるだろ!」
わめく師匠に、振り向いた京介さんがいつもより強い調子で
「死ね」
と言った。俺は笑いをこらえるのに必死だった。これだよ。 二人を無理やりセットにした甲斐があったというものだ。
それから疲れていた俺たちは早々に床についた。若者のいないこの田舎の家は寝付くのが早く、あまり遅くまで起きて騒がしくしても悪いという思いもある。
寝る前にリュウの顔を拝もうと思ったが、犬小屋に引っ込んでしまいお尻しか見えなかった。部屋の明かりを消し、扇風機に首を振らせたまま横になるとあっというまに眠りに落ちた。
どのくらい経っただろうか。
バイクの音を遠くで聞いた気がして、なぜかユキオがまた来た、と思った。そんなはずはない、と思いながら徐々に頭が覚醒し、むくりと起きる。腕時計を見ると深夜2時過ぎ。トイレに行こうと起き上がると、隣の布団がカラになっていることに気づく。「師匠」と小声で呼びかけるが、部屋のどこにもいない。
とりあえずトイレで用を足しに行くと、部屋に帰るときに縁側に誰かの影が映っている。そっと障子を開けると、京介さんが縁側に腰掛けて夜陰に佇んでいる。右手には煙草。こちらに気づいて視線を向けてくる。
「深い森だ」
そうか。京介さんは自分の部屋でないと眠れないということを今更ながら思い出す。
「浄暗という言葉があるだろう。清浄な闇という意味だ」
ここは空気がいい。そう言って目の前に広がる木々の黒い陰を眺めている。遠くで湧き水の流れる音が聞こえる。
「師匠を見ませんでしたか」
そう問うと、煙を吐きながら答えてくれた。
「バイクで出て行ったな」
そういえば、伯父から滞在中自由に使いなさいと言われていたことを思い出す。どこに、と聞こうとしてすぐに聞くまでもないと思いなおした。明日もいろいろありそうだ。そう思って、今日のところはきちんと寝ておくことにする。
「おやすみなさい」
という言葉に、京介さんは小さく手を振った。
朝が来た。目を覚ますと、隣で師匠がひどい寝相をしている。少しほっとする。
伯
父夫婦と合わせて6人で朝食をとる。なにか足らない気がした。そうだ。新聞がない。
「ああ、昼にならんと来ん」
そういえばそうだった。俺のPHSも師匠の携帯も通じない、情報を制限された田舎なのだ。
食べ終わって、部屋に帰ると師匠に夜のことを聞いてみた。
「行ったんですよね、あの京介さんが怪我をした場所へ」
「うん」
と師匠は答え、扇風機のスイッチを入れながら胡坐をかいた。
「なにかあったんですか」
「いや、なにもなかった」
煮え切らない答えに少しイラッとする。あんなやり取りをしておいて、なにもないはずはない。すると師匠は意味深に目を細めると、ゆっくりと語った。
「昼にはあり、夜にはなかった」
掘り出されていた、というのだ。
「僕らが気づいたことを、知られたようだ」
言葉の端に、気味の悪い笑みが浮かんでいる。
「なにが、埋まっていたんですか」
師匠は畳の上にごろんと寝転がった。
「犬神を知ってるかい」
「聞いたことは」
京介さんがこの旅の前に口にしていたのを覚えている。
「古くは呪禁道の蠱術に由来すると言われる邪悪な術だよ。犬神を使役する人間が他人の物を欲しがれば、犬神はたちまちにその人に災いをなし、その物を与えるまで止むことはない。犬神は親から子へと受け継がれ、その家は犬神筋とか犬神統などと呼ばれる。犬神筋は共同体の中で忌み嫌われ、婚姻に代表される多くの交流は忌避される。そのために犬神筋は一族間での通婚を重ね、ますますその"血"を濃くしていく」
師匠は秘密めかして仰向けのまま指を立てる。
「犬神というのはその名前とは裏腹に、小さな鼠のような姿で描かれることが多い。もしくは豆粒大の大きさの犬だとする記録もある。犬神筋はそれらを敵対する者にけしかけ、腹痛や高熱など急激な変調をもたらす。犬神にとりつかれた者は山伏や坊主などに原因を探ってもらい、どこの誰それの犬神が障っているのだと明らかにする。その後は、原因と判じられた犬神筋の家へ赴いて……」
「貢物を差し出すわけですか」
口を挟んだ俺に、師匠は首を振る。
「文句を言いに行くんだよ。人の道に外れたことをしやがって、と」
続く
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