田舎
〜中編〜
すごすごと部屋に戻ると玄関の方から若い男の声が聞こえた。出て行くと、近所に住む親戚のユキオだった。顔を見ると懐かしさがこみ上げてくる。子供のころは夏休みにこの家へやってくるたびに遊んだものだ。どうしてる、と聞くと
「役場で、しがない公務員じゃ」
と、はにかんだように笑う。そういえばたしか俺より2つ歳上だった。
「じゃ、今は昼休みじゃき、また晩にでも寄るわ」
ユキオはそう言って家にも上がらずにスクーターにまたがった。どうやら仕事に戻った伯父が、道ですれ違いざまに俺が来てることを話したらしい。
時計を見ると、15時をだいぶ回っている。ずいぶんと大らかな昼休みだ。
「さあ、これからどうしましょうか」
4人で集まって、何をするか話し合った。じっとしていると背中に汗が浮いてくる。男部屋は窓を大きく開け放ち、クーラーなどつけていない。「らしき」ものはあるが、スイッチを押しても反応はなかった。
「泳ぎに行きましょう」
という俺の意見に、全員が賛成した。
旅行に発つ前にあらかじめ、水の綺麗な川があるから泳げるような準備をしておいてくださいと伝えてあったので、一も二もない。少し山を下るので、伯父の家の車を借りた。
向かう先に着替える場所がないので、部屋で水着に着替え、服を羽織って出かけることにした。師匠が来た時とは別の白いバンのハンドルを握り、他の3人が乗り込む。
蝉の声の中を車は走り、くねくねと山道を下りていくとやがて一軒の家の前に出た。
「ここに止めてください」
川の近くには車を止められそうなところがない。いつもこの家の敷地の端を借りてとめさせてもらっていた。
車を降りた。暑い。蒸すわけではなかったが、とにかく日差しが強かった。サンダルに履き替えた足が気持ちいい。
舗装もされていない田舎道を、
「次暑いって言ったヤツ罰金」
などと言い合いながら歩いていると、それなりに仲間らしく見えるのだから不思議だ。
つい数時間前に、
「どうしてコイツがいるのか」
と師匠と京介さん、ともに喧嘩腰だったのを忘れそうになる。わりとねちっこい師匠に対して、さっぱりしている京介さんの大人の対応が奏功しているように思えた。
見通しのいい四つ辻に差し掛かったとき、ふいに俺の前を歩いていた京介さんが
「アツッ」
と言ってしゃがみこんだ。師匠が嬉しそうに
「今暑いって言った? 暑いって言った?」
と言いながら振り返る。
「言ってない」
京介さんはすぐ立ち上がり、右足を気にしながら、なんでもないと手を振ってみせる。CoCoさんがどうしたのと聞き、京介さんは歩き始めながら
「何か踏んだかも」
と答える。
そんなやりとりのあと、数分とかからずに川に辿り着いた。 山に囲まれた渓谷の中に、ひんやりとした水面がキラキラと輝いている。昔とちっとも変わらない、澄んだ水だった。
カラカラに乾いた大きな岩の上に服とサンダルを放り投げ、海パン姿になって玉砂利の浅瀬にそろそろと足を浸す。冷たい。でも気持ちがいい。ゆっくりと腰まで浸かって、川の流れを肌で感じる。
師匠はというと、準備運動もそこそこにいきなり飛び込んで早くもスイスイと泳いでいる。女性陣の二人は水辺で沢ガニを見つけたらしく、しばらくウロウロと足の先を濡らすだけだったが、俺が肩まで浸かるころ、ようやく羽織っていた服を脱ぎ水着姿になって川の中に入って来た。
下流の方から派手なクロールで戻って来た師匠が、膝まで浸かった女性二人の前で止まり、水中から首だけを出して
「うーん」
と唸ったあとでCoCoさんの方に向かって右手で退ける仕草をした。
「もう少し、離れたほうがいい」
その言葉を聞いてきょとんとした後、CoCoさんはおもむろに隣の京介さんの方を見上げて、ついで足元まで見下ろし、芝居がかった様子でうんうんと頷いてから、どういう意味だコラというようなことを言って師匠に向かって水を蹴り上げた。
そのあとしばらく4人入り乱れての水の掛け合いが続いた。やがて俺は疲れて川からあがり、熱い岩の上にたっぷり水をかけて冷ましてから座り込む。他の3人は気持ちよさそうに、深さのある下流のあたりを泳ぎ回っている。俺も泳げたらなあ、と思う。
完全なカナヅチというわけではないが、足がつかないところへは怖くてとても行けない。溺れる、という恐怖感というよりは、足がつかない場所そのものに対する潜在的な恐怖心なのだろう。
なにも足に触れるはずのない水深で、「なにか」に触ってしまったら……
そう思うと、いてもたってもいられず、水から出たくなる。まして今、川の真ん中に誰のものともつかない土気色をした「手」が突き出ているのが見えている状況では、とても無理だ。
「手」に気がついた時にはかなりドキッとしたが、その脈絡のなさに自分でもどう反応していいのかわからない感じで、とりあえず深呼吸をした。師匠たちの泳いでいる場所からさらに下流。岩肌の斜面から覆いかぶさるような藪が突き出ていて、その影が落ちているあたり。
どう見ても人間の手に見えるそれが、二の腕から上を水面に出して、なにかを掴もうとするように手のひらを広げている。
師匠たちは気づいていない。
俺は眼鏡をそろそろとずらしてみる。ぼやけていく視界の中で、その「手」だけが輪郭を保っていた。
ああ、やっぱりと、思う。
そこに質量を持って存在する物体であるなら、裸眼で見ると他の景色と同じようにぼやけるはずなのだ。この世のものではないモノを見分ける方法として師匠に習ったのだったが、俺は夢から覚めるための技術として似たようなことをしていたので、わりと抵抗なく受け入れられた。悪夢を見てしまうとほっぺたをつねって目を覚ます、なんていうやり方が効かなくなってきた中学生のころ、俺は
「夢なんてしょせん、俺の脳味噌が作り出した世界だ」
という醒めた思考のもとに、その脳味噌が処理しきれないことをしてやれば夢はそこで終わると考えた。
夢から覚めたいと思ったら、本を探すのだ。もしくは新聞でもいい。とにかく、俺が知るはずのないものを見ること。そして、そこに書いてある情報量がページを構成するのに足りないことを確認し、
「ざまあみろ脳味噌」
と嗤う。
本質からして都合よくできている夢なのだから、「本を読もう」とすると、それなりに本っぽいつくりになっているかも知れない。しかし、中身は無理なのだ。世界を否定したくて文章を読んでいる俺と、世界を成り立たせるために一瞬で構築される文章、その二つを同時に行うには脳の処理速度が絶対に追いつかない。そして、化けの皮が剥がれたように夢が壊れていく。そうして目を覚ますのは俺の快感でもあった。
それと同じことが、この眼鏡をずらす手法にも言える。仮に途方もなくリアルな生首の幻覚を見たとして、ああ、これは現実だろうかと考えたとき、眼鏡をずらしてみる。すると、現実には存在しない生首だけは、ぼやけていく世界から取り残されたように、くっきりと浮かび上がってくる。もし脳のなんらかの作用で、「眼鏡をずらしたら生首もぼやける」という潜在的な認識のもとに生首もぼやけて見えたとしても、それは「その距離であればこのくらいぼやける」という正確な姿を示さない。必ず他の景色とは「ぼやけ具合」が食い違って見える。それが一瞬で様々な処理をしなくてはならない脳味噌の限界なのだと思う。
だが、幻覚はまた、夢とも違う。ああ、コイツは幻だと気づいたところで、消えてくれるものと消えないものとがあるのだ。
「うおっ」
という声があがり、CoCoさんとぶつかりそうになった師匠が立ち泳ぎに切り替える。
「川でバタフライするな」
そんなことを言いながらCoCoさんのほうへ水鉄砲を飛ばす。そのすぐ背後には、水面から突き出た手。
思わず師匠に警告しようとした。しかし、なにか危険なものであるなら、俺が気づいて師匠が気づかないなんてことがあるのだろうか。ならばこれはただの幻なのだ。俺の個人的な幻覚を、他人が怯える必要はない。けれど、なぜ今そんなものが見えるのか……
薄ら寒いものが背中を這い上がってくる。
師匠はなにも気づかない様子で再び平泳ぎに戻り、「手」から離れて上流の方へやってくる。俺は「手」から目を離せない。肘も曲げず、まるで一本の葦のように流れに逆らってひとつ所に留まっている。そこからなんらかの意思を感じようとして、じっと見つめる。
続く
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