追跡

俺は恐る恐る工場の敷地に入って行き、師匠の名前を叫んだ。トタンの波板が風にたわむ音に紛れて、微かな応えが聞こえた気がする。空っぽの倉庫をいくつか通り過ぎ、敷地の隅にあったプレハブの前に立つ。

ペンライトのわずかな明かりに照らされて、スプレーやペンキの落書きだらけの外装が浮かび上がる。その全面に蔦がからみついて、廃棄された物悲しい風情を醸し出している。

小声で、もう一度呼んでみる。その瞬間、中からガタンという何か金属製のものが倒れる音がして、

「ここだ」

という弱々しい声が続く。蹴られた跡なのか、誰かの足跡だらけの入り口のドアは、すぐ見つかったが、ドアノブを捻ってみてもやはり鍵が掛かっている。

「無駄だ。あいつら何故か合鍵持ってるんだ」

という中からの声に、

「裏の窓から入ればいいんでしょう」

と答えると、師匠は少し押し黙ったあと彼女がいるのかと訊いた。その通りだと答えたあとで、俺はプレハブの裏に回る。かなり高い位置に窓はあったが、壁に立てかけられた廃材をなんとか利用してよじ登る。割るまでもなく、すでにガラスなど残ってはいない窓から体を滑り込ませる。中は暗い。何も見えない。口にくわえたペンライトを下に向けると、なんとか足場はありそうだ。錆付いたなにかの骨組みを伝って、下に降りる。

ここだという声に、踏み場もないほどプラスティックやら鋼材やらで散らかった足元に気をつけながら進み、ようやく師匠らしき人影を発見した。鉄製の柱を抱くように座り込んでいる。

よく見ると、その手には手錠が掛けられている。自分の手と手錠とで柱を巻くような輪っかを作ることで、自由を奪われているのだ。顔をライトで照らすと、

「眩しい」

と言ってすぐに逸らしたが、かなり憔悴していることは分かった。そして殴られたような顔の腫れにも気付いた。

「ツルハシみたいのがあるはずです」

と言うと、師匠は少し考えるように頭を振ったあと、

「あの辺にあったかな」

と部屋の隅を顎で指した。暗くてよく見えないので、半ば手探りで探す。錆びてささくれ立った金属片が指に傷をつける。俺はかまわずに進み、ようやく目的のものを発見した。

柱の所に戻り、出来るだけ手を引っ込めておくように指示してから手錠の鎖の部分に狙いをつける。暗いので、何度も軌道を確認しながら5分の力でツルハシの先端を打ちつけた。

ゴキンという音とともにパッと火花が散り、師匠から

「もう一発」

という声がかかる。手錠とは言っても所詮安っぽい作りのおもちゃだ。次の一撃で、鎖は完全に千切れ飛んだ。

「肩、かして」

という師匠を支えながら、出入り口のドアに向かう。鍵が掛かっていたが、中からは手動で解除できた。

ようやくプレハブの外に出た時には、入ってから20分あまりも経過していたと思う。外には彼女が待っていて、師匠は片手を挙げて

「いつも、すまん」

と言った。暗くて、彼女の表情までは伺えなかった。

師匠はナンパした女とホテルに行ったまでは良かったが、出てから一緒にレストランに向かう途中、偶然その女のオトコに見つかり、逆上したそいつに後ろから鈍器のようなもので殴られて車で連れ去られたのだと言う。それからこの廃工場を溜まり場にしていたオトコとその仲間たちから殴る蹴るの暴行を受けた上、手錠をはめられ監禁されてしまったということだった。俺たちが見つけなければどうなっていたかと思うと、ゾッとしてくる。

「力が入らない」

という師匠を背負うような格好で、半分引きずりながら俺はとにかくこの場を離れようと歩き出した。

熱い。風邪を引きでもしているのか、師匠の体はかなり熱かった。無理もない。服は奪われでもしたのか、この寒空の下、ジーンズに長袖のTシャツ1枚という格好だった。

彼女が上着を脱いで師匠の背中にかぶせる。俺たちは無言で歩き続けた。どこかタクシーを拾える所まで行かなくてはならない。

やがて師匠が熱に浮かされたのか、半分眠りながらうわ言めいたことをぼそぼそと繰り返し始めた。俺は、ともかくこれですべて解決したと安堵しつつも、『追跡』の続きが気になっていた。

廃工場についてからの見開き4ページ分で師匠の救出に成功しているにもかかわらず、その最後にはこうあったのだ。

心の準備が出来るまで次のページには行かないほうが良い。

このあと、いったい何があるというのだろう。俺は師匠がずり落ちないように苦心しながら片手で『追跡』を取り出して、口にくわえたペンライトをかざす。

心の準備……なんのためのだろう。またドキドキしはじめた心臓を鎮めながら、俺はゆっくりとページをめくた。

彼がうわ言で女の名前を口にした途端、その背中に鋭利な刃物が突き立った。

ゾクッとした。一瞬歩調が乱れる。鋭利な刃物。そんなものがどこから来るのか。

決まっている。ここには俺と師匠の他には、あの人しかいない。コツコツと足音が背後からついてくる。背中の師匠が邪魔で後ろが見えない。だが、そこにはあの人しかいないじゃないか。すべてが繋がって来る。

『追跡』の中の主人公は、一人で行動しているように見える。だからこそ現実で同行すると言い出した彼女の役割はただの観察者に過ぎなかったはずだ。しかし、妙な引っ掛かりを感じていたのも事実だ。

冒頭のゲームセンターのプリクラ。これはまだ良い。一人で撮る変わった奴もいるだろう。雑貨屋やら喫茶店、ボーリング場も一人で入ったって良い。けれど、ラブホテルだけはどうだ。『追跡』の主人公は果たして一人で部屋に入ったというのだろうか。

『追跡』は極端に省略された文章を使っているが、もしかすると意図的にもう一人の同行者の存在を隠していたのかも知れない。つまり、彼女の役割はイレギュラーな観察者などではなくれっきとした登場人物なのかも知れないじゃないか。

俺は神経が針金のように研ぎ澄まされていく感覚を覚えた。場所は図らずも、さっき"うしろすがた"に会った空き地の前だ。師匠はむにゃむにゃとうわ言を繰り返している。その言葉は不明瞭でほとんど聞き取れない。後ろ頭にかかる師匠の息が熱い。

『追跡』は師匠が刺される場面で唐突に終わっている。バッドエンドだ。救いなど無い。

彼女は本当にこれに書いた内容を覚えていないのだろうか。この最後のページを見せないために、順番どおりに読んで行くべきだと言ったんじゃないのか。でも彼女はいま刃物なんて持ってるのか。いや、小さなバッグがある。そして彼女が雑貨屋で買ったものはなんだ? 血染めのピコピコハンマーをやめて、最後に選んだものはなんだった? 

思考と疑惑が頭の中でぐるぐると回る。足は、なぜか止められない。彼女は今、後ろでなにをしている?そして決定的な時がやって来た。師匠のうわ言が一際大きくなり、俺にもはっきり聞こえる声が、こう言った。

「……綾……」

その瞬間、時間が止まったような錯覚を覚え、俺は自分の心臓の音だけを聞いていた。

彼女が、足音を響かせて近づいてくる。そして、優しい声で言うのだ。

「なあに」

師匠は眠ってしまったようだ。寝息が聞こえてくる。俺はまだドキドキしている胸を撫で下ろして、師匠がこの状況下で彼女の名前を呟いたことに不思議な感動を覚えていた。

続く
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