霊症物件

大学生の時の事、進級した俺はあるアパートの扉を開けた。俺は埃のつんと鼻を刺す臭いに顔をしかめた。フローリングにも白い壁にもつやつやとした新築の初々しさがあるのに、いやにカビ臭かった。

参ったな……と思ったが、今更別の引越先を探すわけにもいかない、手頃で手近のアパートはここより他にはないだろう、だが、この臭い……

(いっそ実家でもかまわないか)

と、脳裏をよぎるがやはり行って帰ってで四半日使うのは苦労というより苦痛。それに比べたら臭いなんぞは。結局、俺はその部屋を借りる事にした。

大学の帰りに買い物をし、ファブ○ーズも買う事にした。新居に着くと、相変わらず目も霞む様な異臭に出迎えられ、ちらと顔を背けて躊躇った。目を瞑ってファブ○ーズを構えてシュウシュウやりながら中へ入る。

「逆にファブリくせぇ……」

無香料にしておけば良かったが、まぁ、あの臭いよりはマシか。

荷ほどきは大体終っているから、バイトまでしばらく時間がある。とりあえずベッドの上に乗ってTVをつける。夕のニュース番組がやっていたが、えらく電波が悪い。

画面の真ん中を歪みが走っている。アナウンサーは目鼻を左右に伸ばしてうねうねと歪めている。TVが歪んだら、叩くのが一番。バンと平手で叩くと画面は戻る。しかし、暫くするとまた歪む。叩く、歪む、叩くを数回繰り替えしているうちにバイトの時間が来たので家を出た。

バイトは滞り無く終って、夜は12時、月が出ている。高速から降りて来る車を見ながら赤信号で足をとめる。時間が時間だから、トラックが多い。見るともなしに月を見る。半月より少し欠けた月だった。

信号が青に変わったのが目の端について横断歩道を渡るとパァパァッとクラクションが耳元で鳴った。

「あっ」

と、すぐ背中を車が走り抜け、道の真ん中で突っ立っている自分に気付いた。戻るに戻れず突っ切ると、心臓が口から出そうな程脈打つ。振り返って見た信号は赤から青に変わる所だった。

次の日は朝から頭が痛かった。柔らかいもので絞められる様な緩やかな痛み、激痛ではない。

(今日は二限までだし、まぁ大丈夫だろ)

鈍痛を抑えながら学校へ向い、何事もなく終えると昼に家に着く。昨日かけたファブ○ーズが利いたのか無臭だった。痛い頭を抑えながらベッドの上に寝転がると

ワー……

とか

キャッキャ……

といった子供達の声が遠くで聞こえる。横目で窓を見遣るとイガグリ坊主達が外で走り回っていた。なんだか良いなぁ、なんて柄にもない事を思いながら身体を起し、がらがら、窓を開けると子供はいなかった。真っ暗だった。

はぁ?と振り仰ぐと霞雲のあわいに月が薄ぼんやりとしている、振り返ると置き時計は十二時。臭いがぶり返していた。

頭がひどく痛い。眼球がぐりぐりと痛んで涙が出て来る。盆の窪まできゅうきゅう悲鳴をあげる。後ろ手に窓を閉めるとカーテンを閉め、ベッドへ倒れこむ。

なんだ?どう言う事だ?頭が痛くて考えんのも億劫だ。改めて時計を見ると十二時少し過ぎ、クソッ、頭痛薬を飲んでさっさと寝ちまえ……

翌朝、気分は幾分マシになっていたが、鈍重な痛みと首のコリは残っていた。身体を起してハァと息を着いた。喉がヒリヒリと乾く、蛇口へ向おうと立ち上がると、腰に激痛が走った。背中の筋がつった様に硬く、腰椎は石棒、尻の肉が痙攣して、髄に麻痺感がある。

(立てない……)

老人の様によちよちと立ち上がって歩くのだが、何かにすがっていないと立ってさえいられない。よちよち、ちょぼちょぼ、と、足を摺って歩く。蛇口まで5分近くかかった。普段なら僅か十歩以内の所を5分も……

(クソッ!なんで、こんな目に逢うんだ。クソ、冗談じゃねーよ)

とりあえず、これでは大学へも行けない。今日は一日じっとしてるかと携帯で友人に代返を頼み、事情を説明する。ベッドの上で横になり、TVをつける。

「そんなわけだから、今日は頼むわ。明日休みだし……うん、病院行って来る」

TVの電波はやはり悪い。いっそひどくなってさえいる。最早キャスターの顔は原型を留めていない。

「おまえ、久米ちゃんに相談したら?」

どうやらコイツはそっち系に話を持っていきたいらしいな。久米ちゃんとは所謂霊感のある人間で、俺の幼馴染み。大竹に似ている為、小学校の時はバカルディか風まかせと呼ばれていた。

「そうねぇ……まぁ、そうするわ」

何となれば、彼は車を持っている。この身体で外へは出れない。もとより幽霊退治なんて頼むつもりもない、彼には車に乗せてもらうつもりで相談するのだ。

電話を切って、しばしTV画面を眺める。真ん中、川の様に太い歪みが走っている。水面の様にゆらり、うねうねと顔をチグハグに伸ばしている。不思議と音はクリアに聞こえた。

「もしもし、久米?……ああ、悪いんけど明日暇かな……うん……いや、車出してくれないか。腰痛めちゃってね、病院に行きたいんだ……え、いや……別に変わった事はないけど……うん、詳しい事はまぁ、明日……」

といって電話切る。明日の事は明日すれば良いだろう。すると途端に暇になる、TVはとても見られたものではないのだが、消すのは寂しいからラジオ代わりに付けておく。仰向けには寝れない。背中が痛いから丸くなって横になる。歪んだTVを背にして壁を眺めた。

(どうしてだろう、この臭い。気持ち悪い……ああ、また頭が痛くなってきた)

目を瞑ると暗闇のだんだらがぐるぐると回る。臭いが強くなる。鼻の奥が引き絞られたみたいになって痛い。

(違う……なんだ、この臭い……)

埃臭いというよりは硫黄臭いとか腐った魚の臭い……。もったりとした臭いが口腔にも鼻にも充満する、胃がヒクつく、ぐっと込み上げる。

まずい、と思って立ち上がろうとしたが、腰に激痛が走る。ごろりと反転してベッドから転げる、うっぷうっぷと喉が脈打ち、手で口を押さえるが、立つのがいっぱい、歩いても進みやしない。生暖かい呼吸を浅く浅く繰り返し、えづきながら進む、トイレは遠い。大して進まぬうちに抑えた手からびしゃびしゃと溢れ返る。どうにかしないと思っても溢れえて止まない。

「うぷふげげげぇ、おぇ」

なんて情けない声で床を汚した。その臭いが、またひどい。でもそれで些か気分は良くなった。

(あぁーあ……床拭くか……)

と曲った腰を痛めながら台所まで行こうとするが、足が上がらない。台所まで行くには吐瀉物をまたがなけりゃならないのに、そこまで足が伸びない、腰に無理をさせれば、とも思ったが、やはり無理。どうしようもないじゃないか。俺は足を吐瀉物の中に入れた。温かく、ぬるぬるした感触に足が滑り込むと涙が出て来た。

床を拭い終ったのは昼過ぎだった。生臭い臭いは多少おさまった様に思う……いや、鼻が馴れただけか。窓を開けて換気をすると幾らか気分が落着いた。

(あの生臭い臭い、何もないのになんで?なんで俺だけこんな目に)

付けっぱなしのTVはもう画面全体がうねうねとしていて何も映していない。番組間の短いニュースをやってるのだろう、ゆらめきの中から人が死んだ話をしている。こんなTVじゃ余計気が滅入る。テーブル上のリモコンを握ると

「痛っ」

静電気か?掌を見ると紙で切った様な薄い傷が真一文字についている。握って、開く、血が少し滲んでヒリヒリと痛い。手を頭上にかざすと、血が垂れてきた。

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