霊症物件
〜後編〜

いつの間に寝ていたのか、夕陽が没しようとしていた。肌寒いので、立ち上がる、腰の事を忘れていて激痛が走る。呻いて窓に手をかけると、誰かがいた。目の前のカーテンで隠され、しかとは見えなかったが、中年の男性らしかった。気味がわるい。多少の痛みは無理して窓を思いきり閉め、カーテンをひく。

ツーンと生臭さが鼻に入った。またかと思って転がってるファブリーズを手に取ってシュッと吹く、途端、強烈な臭いが部屋を覆い、嘔吐がまた込み上げて来た。腐った様な臭い、腐臭はコレか、コレからするのか。急いで窓を開けてそれを投げ捨てる。うっとえずいて外の空気で呼吸する。中年男はいなくなっていた。

「クソッ!ボケ!いい加減にしろ!」

叫んで窓を閉め、ベッドに腰掛ける。カーテンを引いた部屋は既に暗い。両手をぼんやりと眺めた。それから、頭を抱えた。視線は両足の間の暗い所へ落ちる。ぼんやりと何が見えた。

(何だ……)

目が合った。それは黒ずんで、パンパンにむくんだ中年男の顔だった。唇はめくれ上がって、頬は割れ、毛はちりちりと疎らだった。

息が詰まり反射的に両足を上げる。腰が悲鳴を上げる。ベッドに転げる。毛布を頭から被った。

(嘘だ、おい……ちょっと……)

冷や汗がじっとりと滲む。途端……

どんどんどんどんどんどんどんどんどん……

ベッドの下から叩き上げる音が、衝撃が伝わる。叫びたくても声もでない、目を瞑り、身を硬くして、ただひたすらやり過ごすのを待つ。

どんどんどんどん……

衝撃で左足の毛布がまくれる。ふっと寒い空気が足をなでる。ぐっ、と崩れた柔かいものが足首に食い込み、どこかへ引き摺ろうとしていた。

「アッ!」

と声が出た。俺は渾身の力で足をひきつけ、ベッドを降りて這いつくばった。粘ついた重いものが背中に縋り付いた

(お、久米だ……。)

「あ、おまえー、気がついたな」

ああ、と思って身体を動かそうとしたら服が張り付いて動きづらかった。頭からケツまですっかり水浸しだった。

「なんだ、これ?」
「なんだもかんだもあるかよ、おまえ。ビビったぜぇ、自殺とかすんじゃねぇよ」
「あ?なんだ?」
「お前、風呂ん中で水溜めて逆様になって顔とか突っ込んでたんだよ」
「……知らないな」

久米は腰を痛めた俺を気遣って夕飯を買って家へ来たのだそうだ。ノックしても出ないので勝手に上がり込んだ所、風呂に上半身を突っ込んでいる俺を発見したのだ。けらけらと

「危うく死ぬとこだったな」

などと笑うが、俺は安堵から涙が出て来た。

「久米さぁ……このうち……」
「おお、アレだな。アレ物件だ」

と言うなり立ち上がってベッドの上に腰掛け

「いましはたそ」

と二三度呟く。

「あがかしこしかみめしたまうぞ」
「あれなをしめさんぞ」

などと言いながら部屋の中をぐるりぐるりと歩き回る。と、突然足を止めて

「チッ」

と舌打つと

「このっ」

と言いながら床をだんだんと踏みならし出す。頭に響く程おもいきり踏み付ける音だった。

ピタリと音が止んだ。久米はメガネを直すと

「うほっ」

と変な笑い声を出した。その声を聞いた途端、肩がほぐれて、腰が少し軽くなった。だが、やはり腰は曲ったままで伸ばすと痛い。

「……おい、どうなってんの?」
「お。オッケーじゃねーのかと。うへぇ、でもやっぱりくせぇなこの部屋は」
「さっきよりは全然マシだよ。それで、いったい」
「なんか出したわ。追い出したっつーか」
「そう……あの呪文みたいので……」
「あれは、俺もよくわからんけど、久米の家には昔から神様がついてんだっつんだよ、な。だから教えられた手順通りにやってるとどうにかなんだ」

そう言って、俺を助け起した久米は翌朝の十時まで俺とだべってくれた。

「で、除霊がどうとかってのは……」
「さぁ?」
「さぁ、ってお前」
「なんか良くわからないんだよ。精神的な問題なのかねぇ、言葉を色々と唱えるだろ、あんなのだってなんでも良いんだよ」
「なんでも?」
「一度、クリムゾンキングの宮殿歌ってみたら、それでもイケたぜ?コートオブザクリムゾンキーングってな。なんだなぁ、胆力問題っつぅか、大抵はそういうもんじゃねぇか?」
「じゃあ何で呪文みたいなのを」
「効率が良いのさ。ユングの集合的無意識じゃないが、この国の人間にはこの国の人間の集合的無意識があるんだと思うな、なぁ、で、神様の名前出す時は俺だけの精神力じゃないんだな。俺を含めた神様を潜在的に感じてる人達の力が底で流れて来るんだろうっつーふうに思うんだよ。言ってる事わかるか?」
「なんとなかくね」
「で、その神様だとか仏さまだとかの形を借りたみんなの精神力の塊っつーか一端っつーのに頼ると楽なわけだよ。逆に、だ。俺は一度ああいう手合いにテトラグラマトンを、こう、書いてみた事があるんだが……ああ、あのヨッドとかヘーとか……めんどくせぇなぁ、ゴッドの名前だ。それを書いたの。そしたら全然利き目なかったね。こっちも実感ないし。な、要するにこっちが気で勝ってりゃ、大概なんとかなんだよ」
「ふぅん」

そんな話をしているうちに夜は白々と明け、俺は車にかつぎこまれて病院に。医者には

「極端な姿勢で腰椎を痛めましたね、筋肉もこれ大分痛んでるみたい」

と言われた。一週間程は動くのに億劫だった。
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