雨音
大学2回生の秋の終わりだった。
その日は朝から雨が降り続いていて、濡れたアスファルトの表面はもやのように煙っている。こんな日には憂鬱になる。気分が沈滞し、思考は深く沈んでいる。
右手には川があり、白いガードレールの向こうもかすかに煙って見える。カッチカッチと、車のハザードランプの音だけがやけに大きく響く。それだけが世界のリズムになる。すべてがそのリズムで成り立っている。
俺はもう一度川を見た。あのガードレールのこちら側に雨は降り、あちら側にも同じ雨が降りそそいでいる。道に落ちる水と、川面に落ちる水。見上げれば暗く低い空から、それでも数百メートルの高さをゆっくりと落ち、地表においてわずか数センチの違いで運命が分かれている。
このイメージが妙に可笑しくて、運転席でハンドルに頬杖をついている人に伝えた。
すると彼はめんどくさそうに口を開く。
「此岸と彼岸の象徴か。確かにこの世とあの世なんてたったそれだけの違いだよ。けど、地中に染み込んでも川を流れても、いずれは海にたどり着く」
海。
俺にオカルトを教えた師匠が言うその「海」は、きっと「虚無」と同義なのだろう。彼は死後の世界を認めなかった。ここでいう死後の世界とは、地獄とか天国とか、そういうこの地上以外の世界のことだ。なぜか認めないのかはよくわからない。けれど頑なにそう信じていたのは確かだった。
夕暮れにはまだ少し早い。俺と師匠は路肩にとめた車の中で、ずっと待っていた。先日雨の降る日に、師匠はここでなにか面白いものを見たらしい。
「いい雨が降っているぞ」
そう言って俺は呼び出され、そしてここにいる。まるで刑事の張り込みだ。そう思いながら、アンパンをひと齧りし、牛乳のパックを傾ける。
左手には空き地があり、草むらの中で誰かが置き去りにした一輪車が雨に打たれている。誰も通らない。
ふいに師匠が口を開き、
「仮に、生まれた時から地下室で育てられた子供がいるとして、その子は地下室の外で自ら体験するまで雨というものを知らないだろうか」
と、怖いことを言う。
「火よりも雨の歴史は古い。人間が猿だった頃から、いやそれ以前から地表で生きるすべての生物に雨の記憶が宿っているんじゃないかって、思うんだ」
遺伝子の奥深くに……
そう言ってガサガサとコンビニの袋を漁る。もうアンパンしか残っていないのに、諦め悪くかき回している。自分がアンパンばかり買ったくせに。
雨の記憶か。
思考が再び、深く沈降していく。動物は生得的に、自分にとって危険なものを見分ける力がある。捕食すべきものもまた。それらに出くわした時、遺伝子に記憶された反応が起こる。もっと原始的な生命にとっては、走光性や走水性がそれだろう。
同じように、雨に対する反応も生まれついてこの体の中に眠っているのだろうか。気の遠くなるような過去から、連綿と受け継がれてきた記憶が。はじめて雨を体験した時のことを思い出そうとする。
当然そんなことを今の俺は覚えてはいない。すべての人に聞いてみたい。
『はじめての雨はどうでしたか』
と。
きっと誰も答えられない。誰もが体験したはずなのに。なんだか愉快だ。
もう一度、自分の記憶を探ってみる。雨の匂いはいつも懐かしい。その懐かしさは、どこから来るのだろう。とりとめもないことを考えていると、師匠の欠伸にふと現実に還る。
「来たぞ」
雨の筋に霞む道の先に、人影が現れた。師匠は曇ったフロントガラスを袖で拭く。俺は目を凝らして前方を見つめる。
赤い傘が見えた。続いてその傘の柄を持つ、女性の姿が浮かび上がって来る。表情まではわからない。30がらみだろうか。服の感じからそう思う。そしてなにか嫌な感じがした。
すぐにその嫌悪感の正体に気づく。傘をさして歩く女性のすぐ後ろに、5,6歳の女の子がついて歩いている。桃色の靴。黄色い帽子。雨さえ降っていなければ、ごく普通の母親とその子どもに見えただろう。だが、今は異様な光景だった。
傘をさす女性。その1メートル後ろを俯きながら歩く、傘を持たない子ども。傘の下、寄り添うように歩いていればなんの違和感もないはず。たった1メートルで、まるで此岸と彼岸だ。
「雨のせいか、鼻が利かない」
師匠はそう言って、食い入るようにそのふたりを見つめている。やがて車の横を通り過ぎて、ふたりは再び雨の中に煙るように消えていく。
「あれは、生きている人間だと思うか」
俺に聞いている。
わからなかった。師匠にもわからなかったらしい。もう姿は見えない。曇ったままのリアガラスを拭こうとシートを倒して手を伸ばすけれど、その手は宙に惑うだけだった。
「母親も娘も生身。母親は生身、娘は霊。母親は霊、娘は生身。母親も娘も霊」
師匠があまり感情を交えずにそう呟いた。
どれも悲しい。なぜか、ひどく悲しかった。
息が詰まり助手席の窓ガラスを少し下げる。ザーッというきめ細かい雨音が車の中に入り込んで来た。ハザードランプのカッチカッチ、という時を刻む音が小さくなる。音も、風景も、心も、何もかもが雨に降り込められている。こういう世界に、なってしまったみたいだ。
はじめて体験する雨がいつかは止むなんて、その時知っていただろうか。ふと、すべての人に聞いてみたくなった。
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