跳ぶ
白い線で、脳裏に絵を描く。俺は師匠のいる方向に数十センチ跳び、やがて屋上のコンクリートに足から落ちていく。その白い線で出来た地面にイメージの俺が着地したとき、本物の足にはまだ着地の衝撃はなかった。
一瞬。白い線でできた世界は消え去り、巨大な穴のような断崖が足元にぽっかりと口を開けた。恐慌が全身に広がる前に、下半身へ衝撃がきた。
着地。膝をつき、両手をつく。目を開けると、師匠が哲学者のような表情で腕を組んでいる。
「いま、落ちるのが遅く感じなかったか」
俺は脳の中を覗かれたような気持ち悪さに襲われながら、それでも頷く。
「死ぬ直前に過去が走馬灯のように蘇るって聞いたことがあるだろう。時間の流れなんて、頭蓋骨という密室に閉じ込められた脳味噌にとっては相対的なものでしかない。極限のコンセントレーションの元では、時間は緩やかに流れる。これは、プロスポーツの世界を例にあげるまでもなく理解できるだろう」
言わんとしていることはわかる。恐怖心もまた、コンセントレーションの要因なのだろう。
「このゲームの面白いところは、着地するタイミングが本来のそれよりズレた瞬間に、屋上からの転落という事態を想起させることにある。そしてわずかに遅れて、イメージではなく本当の自分自身が着地する。不可避の死からの生還。このコンマ何秒の世界に生と死と再生が詰まっている」
淡々と語るその顔に、喜びと翳りのようなものが混在しているように見えた。
「じゃあもう一度」
言われるがままに、再び目をつぶる。しゃがんでくるくると回る。立ち上がる。
「こっちだよ」
右前のあたりから声が聞こえた。そちらへ向かって跳ぶ。地面がない。死ぬ。そう思った瞬間に着地する。
なぜか泣きそうになった。こんなゲームを面白いと感じる自分自身が怖くなる。風は凪いだままだった。
「もう一度」
だれもいない深夜の校舎の屋上で二人、生と死とそして再生を繰り返している。気がつくと仰向けにひっくり返って、満天の星空を見上げながら涙を流していた。
デネブ
ヴェガ
アルタイル
夏の大三角形がいびつに、ぼやけて見えた。師匠の顔がそれにかぶさり、
「次が最後だ」
と言った。
俺はのろのろと起き上がり、屋上の縁に立つ。しゃがまなくても回れた。再び、世界は暗闇に閉ざされ、自分の位置がつかめなくなる。そして闇を切り裂く一筋の光のような、その声を待つ。
……
声はない。静かだ。いつまで待っても声はなかった。賭けろというのだろうか。たったひとつしかない自分の命を。二分の一に。
想像する。ここまま跳べば、相対的な着地時間はいままでよりはるかに長くなるだろう。それは、自由落下運動の方程式から導き出される地上までの時間と、きっと等しいはずだ。いや、ひょっとするともっともっと長く、このささやかな人生を振り返れるくらいに長い落下になるのかも知れない。
師匠は、もし今俺が断崖に正対して立っていたら止めてくれるだろうか。答えがないのが、このまま跳べば大丈夫だという答えそのものなのだろうか。薄目を開けたくなる衝動に襲われる。
だがそれをすれば、あの生と死と再生の快感は消え去るだろう。その刹那の時間は抗いがたい蠱惑的な魅力を秘めている。
跳ぶか、跳ばざるか。沈黙する宇宙で、孤独だった。
やがて時間が過ぎ、俺はゆっくりと目を開けた。その前に広がっていた景色は、いまだに俺の脳裏に焼きついて離れないでいる。
結局、どんなに霊感が上がって別の世界を覗き見ることが出来ても、俺の辿り着ける場所は限られている。その先には底知れない断崖があり、その向こうに広がる世界にいる人にはけっして近づけない。それを知った。
その日、立ち尽くす俺に
「帰ろう」
と言った師匠は、優しく、冷たく、そしてどこか悲しげな目をしていた。
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