田舎
〜中編〜

前を行くユキオがハンドルから片手を離し、山側を指さした。もうすぐ目的地だ。ということらしい。

まもなく俺たちは山の中にぽつんと立つ一軒家に辿り着いた。伯父の家によく似た造りの日本家屋だ。広い庭に鶏を飼っている。ユキオがヘルメットを脱ぎながら

「せんせー」

と家に向かって声をかけ、俺は後ろから近づいてその耳元に囁いた。

「なあ、さっき俺たちの車を見失わなかったか」
「いや」

ユキオは怪訝そうに首を振る。そうだろうとは思った。おそらくあれは、俺たちの霊感に反応したのだろう。ユキオには何事もない山道にすぎなかったはずだ。だが、俺たちが狙われたのは明らかだった。なにか、「警告」じみた悪意を感じたからだ。それは、京介さんが足から血を流したあの四つ辻で感じたものと同質のものだった。

俺は師匠の顔を見たが、首を横に振るだけだった。なりゆきにまかせよう、というように。

「電話しといた例の人たちです」

ユキオが玄関の中に体を入れながら奥に向かって言葉をかける。奥からいらえがあって俺たちは家の中へ招き入れられた。

畳敷きの客間に通され、その整然とした室内の雰囲気から正座して待った。廊下がきしむ音が聞こえ、白髪の男性が襖の向こうから姿を現した。ユキオの小学校の先生だったというので、もう少し若いイメージだったが、70に届こうという歳に見えた。

先生は客間の入り口に立ったままで室内を睥睨し、胡坐をかいているユキオを怒鳴った。

「おんしゃあ、どこのもんを連れてきたがじゃ」
「え」

と言ってユキオは目を剥いた。俺は驚いて仲間たちの顔を見る。先生は険しい表情をしたまま踵を返すと、足音も乱暴にその場から去ってしまった。それを慌ててユキオが追いかける。残された俺たちは呆然とするしかなかった。しかし師匠は妙に嬉しそうな顔をしてこう言う。

「あの爺さん、どこのモノを連れてきたのか、と言ったね。そのモノはシャと書く"者"じゃなくて、モノノケの"物"だぜ」

あるいは、オニと書く鬼(モノ)か……

師匠はくすぐったそうに身をわずかによじる。京介さんがその様子を冷たい目で見ている。やがてもう一度襖が開いて、先生の奥さんと思しきお婆さんが静々と俺たちの前にお茶を並べてくれた。

「あの」

口を開きかけた時、ユキオを伴って再び先生が眉間に皺を寄せたままで現れた。入れ違いにお婆さんが襖の向こうに消える。座布団をスッと引き寄せながら先生は俺たちの前に座った。ユキオも頭を掻きながらその横に控える。

「で、」

先生は深い皺の奥から厳しく光る眼光をこちらに向けて口を開いた。

「先に言うちょくが、わしは本来おまんのようなもんを祓う役目がある」

その目は師匠を見据えている。

「その上で聞きたいことというがはなんぞ」

師匠は怯んだ様子もなくあっさりと口を開いた。

「いざなぎ流の勉強を少し、させてもらいました。密教、陰陽道、修験道、そして呪禁道。それらが渾然一体となっているような印象を受けましたが、陰陽道の影響がかなり強く出ているようです。明治3年の天社神道禁止令とその後の弾圧から土御門宗家はもちろん、有象無象の民間陰陽師も息の根を止められていったはずですが、この地ではどうしてこんな現実的な形で残っているのでしょう」

先生は表情を崩さずに、

「知らん」

とだけ答えた。

「まあいいでしょう。法律の不知ってやつですか。そういえば『むささび・もま事件』ってのも舞台はこのあたりじゃなかったかな。……話がそれました。ともかくいざなぎ流はこの平成の時代に、未だに因縁調伏だとか病人祈祷だとかを真剣に行っているばかりか、"式"を打つこともあるそうですね」
「式王子のことか。……生半可に、言葉ばかり」
「まあ付け焼刃なのは認めますが。僕が知りたいのは実は犬神筋についてなのです」
「わしらには関係ない」

先生は淡々と返す。

「まあ聞いてください。ご存知でしょうが、犬神筋というのは四国に広く分布する伝承です」

師匠は正座したまま語った。

曰く、犬神を祓うことのできるわざの伝わる場所には、それゆえに犬神が社会の深層に潜む余地があるのだと。ましてそんな技法が日々の生活の中に織り込まれているこの地では、犬神もまた日常のすぐ隣に存在している。

「ここに来る途中、頭を釘で貫かれた蛇を見ました。明らかに呪いをかけるための道具立てです。もし仮に、誰かの使っている犬神の、その胴体を埋めてある秘密の場所を見つけられてしまったとしたら、その誰かは一体どうするのでしょうか」

師匠が言葉を途切れさせたその瞬間、みんなの手元に置いてある湯飲みが一斉にカタカタと鳴りはじめた。地震かと思い、とっさに電灯の紐を見る。紐はわずかに揺れていて、外から光の射す障子の白い紙も微かに振動していた。こぼれたお茶の雫を京介さんが指で掬い、じっと見つめている。俺はどうやらただの微弱な地震らしいと思ってなお、得体の知れない胸騒ぎがした。揺れが収まってから先生はゆっくりと口を開く。

「いね」

え? と問い返す師匠に、

「帰れ、という方言です」

と耳打ちする。

「それは、この地を去るほかないということですか」

師匠は急に立ち上がり、障子に近づくと骨に手をかける。サーッと木が擦れる心地よい音とともに、眩しい光が飛び込んできた。

縁側の向こうでは、庭につくられた垣根の中で鶏が地面をついばんでいる。その様子を見ながら、師匠がボソっと言った。

「全然騒ぎませんでしたね」

さっきの地震のことを言っているのだと気づくまで、少しかかった。確かに鶏の騒ぐ音はしなかった。

「なんとかなりませんか」

師匠の言葉に、先生は首を横に振るだけだった。ユキオはよくわからないままにオロオロしているように見えた。

「どうも僕はここではやたら嫌われてるみたいだなあ。フィールドワークのために郷土史研究家だとか民俗学の研究者が訪ねてくることだってあるでしょうに。そんな部外者もみんな追い返すんですか」
「人じゃのうて魔物がやってくりゃあ、つぶてで追い払うががつねじゃ」

魔物と来たよ。

師匠は声になるかならぬかという小声で足元にこぼし、また顔を上げた。

「魔物と言えば、いざなぎ流では目に見えない魔物を儀式に引っ張り出すために"幣"という紙細工を作るそうですね。魔群というんですか。川ミサキだとか、水神めんたつだとか、蛇おんたつだとか。神様を模したものも多いようですが。それぞれに決まった形の幣があって、切り方・折り方は師匠から弟子へ御幣集という形で伝えられると聞きました。ある資料で何点か挿絵を見たことがあります。ヤツラオだとかクツラオだとか、おどろおどろしい怪物も幣になってしまえば随分可愛らしくなってしまうと思いました。……ところで」

師匠は障子を閉め、一瞬室内が暗くなる。

「犬神の幣がないのはどうしてですか」

誰の気配ともしれない、ハッとした空気が漂う。俺は固唾を飲んで師匠を見ている。

「どの資料を見ても出てこないんですよ。犬神を象った幣が。たまたまかも知れない。あるいは見落としかも知れない。でもどこか引っかかるんです。犬神は深く土地に食い込んだ魔物で、四国の各地に隠然と広がっている。いざなぎ流によって祓われる対象として、どうしてもっと目立っていないんでしょうか」

先生は師匠の視線を逸らすように天を仰ぎ、深く溜息をついた。そしてそれきり目を閉じて、なにも言葉を発しようとしなかった。

「わかりました。いにますよ」

いにますって、使い方合ってるよね。師匠は俺にそう言うと、先生に向かって頭を下げ、止める間もなく部屋から出て行 ってしまった。残された俺たちもいたたまれない雰囲気になって、腰を上げざるを得なかった。出されたお茶に誰ひとり手もつけないままに退散する羽目になるとは思わなかった。と、俺の隣で京介さんが目の前の湯飲みに手を伸ばし、一気に飲み干した。

帰れと言われた去り際にそんなことをするなんて、少し京介さんのイメージとはズレがあり、奇妙な行動に思えた。すると立ち上がりざま、俺にだけ聞こえる声でこうささやくのだ。

「貸してるタリスマンは持ってきたか」

かぶりを振ると、独り言のように

「気をつけろよ」

と言って部屋から出て行った。俺はなにか予感のようなものに襲われて、自分の前に置かれた湯飲みを掴んだ。

冷たかった。

思わず手を離す。

出された時は確かに湯気が出ていた。間違いない。あれからほんのわずかしか時間は経っていないというのに。一瞬のうちに熱を奪われたかのように、湯飲みの中のお茶は冷えきっていた。まるで汲み上げたばかりの井戸水のように。

※後編は未投稿
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