家鳴り
〜後編〜
腕時計を確認するが、ちょうどそのくらいの時間だ。振り子が止まっているだけで、もしかして時計自体は壊れていはいないのだろうか、と思っていると師匠が言葉を継いだ。
「その腕時計は進んでるか? 遅れているか?」
振られて、また自分の腕時計に目を落とすが、はたしてどうだっただろう。たしか1、2分進んでた気がするが。
「どんな精密な時計でも、完璧に正確な時間をさしつづけることはできない。100億分の1秒なんていう単位ではまるで誤差がないように見えたとしても、その100億分の1では? さらにその100億分の1では?さらにその100億の100億乗分の1では?」
ランプの明かりがかすかな気流に揺れているような錯覚に、俺は師匠の顔を見ながら目を擦る。
「時計は、作られた瞬間から、正確な時間というたった一つの特異点から遠ざかって行くんだ。それは無粋な電波時計のように外部からの修正装置でも存在しない限り、どんな時計にも等しく与えられた運命といえる」
ところが、と師匠はわずかに身を起こした。
「この壊れた柱時計は、壊れているというまさにそのことのために、普通の時計にはたどり着けない真実の瞬間に手が届くんだ」
俺は思わず、時計の文字盤を見上げた。長針と短針が、90度よりわずかに広い角度で凍りついたまま動かない。
「一日のうち、たった一度、完璧に正しい時間をさす。その瞬間は形而上学的な刹那の間だとしても、たった一度、必ずさすんだ」
陶然とした表情で、師匠は時計を見ている。それが夜まで待ってこの時間にわざわざ来た理由か。俺は意地悪く、言葉の揚げ足をとりに行った。
「2度ですよ。一日のうち、夜の2時半と、昼間の14時半の2度です」
ところが師匠は、その無遠慮な批判にはなんの価値もないというように首を振って、一言一言確かめるように言った。
「1度だけだよ。この時計がさしているのは、今の、この時間なんだ」
一瞬頭を捻ったが、その言葉になんの合理的解釈もなかった。ただ師匠はなんの疑いもない声で、そう断言するのだった。
パキン
という音が響いた。家鳴りだ。俺は身を硬くする。
天井のあたりを恐々見上げるが、平屋独特の暗く広い空間と梁があるだけだ。
ミシ・・・・・・ミシ・・・・・・
という木材が軋む音が聞こえてくる。実家にいたころはよく鳴っていたが、今のアパートに越してからは素材が違うせいかほとんど聞くことはなかった音だ。まるで、柱時計が本来の時間と交差するのを待っていたかのように、家鳴りは続いた。
バキン、という大きな音に思わず身を竦ませる。たしか湿気を含んだ素材などが、空気が乾燥し気温の下がる夜中に縮み始め、それが床や壁、柱などの構造物どうしのわずかなズレを生んで、不気味な音を立てる現象のはずだ。
ただの家ではない。この、どんなおどろおどろしい物があるのか分からない薄気味の悪い家で、頼りないランプの黄色い光に照らされている身では、この音をただの家鳴りだと気楽に構える気にはなれない。
向かいに座る師匠を見ると、目を閉じてまるで音楽を聴くように口の端をどこか楽しげに歪ませている。俺もソファに根が生えたように動かず、ただひたすらこの古い家に断続的に響く音を聞いていた。
どれほど時間が立ったのか、ふいに師匠がちょっと待っててと言い置いて、たった一つの明かりとともに廊下の方へ消えていった。リビングに闇の帳がスーッと下りてきて、バシン・・・・・・パキン・・・・・・という家鳴りがやけに立体的になって空間中に響き渡る。
心細くなってきたころ、ようやく師匠が小脇になにかを抱えるようにして戻ってきた。テーブルの真ん中にそれを置き、ランプを翳した。
絵だった。それも、見た瞬間、理由も分からないまま鳥肌が立つような、本能に直接届く、気味の悪い絵だった。なぜこんな絵が怖いのか分からない。キャンパス一面の黒地にただ一点、真ん中から少しずれたあたりに黄色い染みのような色がぽつんと置いてある。そんな絵だった。
「この家の元の所有者はね、洋画家だったんだ」
それも、晩年に気の触れた画家だった。師匠は呟くように言う。
「自分の描いた絵を見て、『誰か、中に、いた』と言って怯える、そんな人だったらしい。この絵も、自分で描いておきながら『これはなんの絵だろう』と言ったかと思うと、そのまま何週間も何ヶ月も考え込んでいたそうだ」
バキッ、と壁が泣いた。
心なしか、家鳴りが大きくなった気がする。
「食事もほとんどとらずに、げっそりと痩せこけながらこの絵を睨み続けていたある日、ふいに頭をあげた彼は、きょとんとした顔で家族にこう言ったそうだ。『わかった。これは』」
バシン・・・・・・ミシ・・・・・・ミシ・・・・・・
まるで師匠の言葉を邪魔するように、軋む音が続く。
「その4日後に、彼は家族の前から姿を消した。『地下室にいる』という書置きを残して。家族は家中を探した。けれど彼は見つからなかった。それから、普通失踪の7年間が過ぎるのを待って失踪宣告を受け、彼は死んだものと見なされてこの土地と家屋は残された家族によって売り払われた。それを買った物好きは、この家に伝わる逸話が気にいったらしい。『地下室にいる』というこの言葉に金を出したようなものだ、と言っていたよ。僕はその物好きと知り合って、この家を借りた。まあ、なかば共同の物置のように使っている」
だけどね、と師匠は続けた。その一瞬の間に、誰かが天井を叩くような音が挟まる。
「だけどね、この絵ももちろんそうだけど、たとえばこの部屋を取り囲むモノたちはすべてその洋画家の収集物なんだ。彼は画家であり、また狂ったオカルティストでもあった。彼のコレクションはついに家族には理解されず、家に付随する形で二束三文で売られてしまった。その柱時計もその一つだ。なにか戦争にまつわる奇怪な逸話があるそうだが、詳しくは分からない」
師匠の声を追いかけるように家鳴りは次第に大きくなっていくようだ。
「僕自身の収集品は、鍵の掛かる地下室に置いてある。彼が『地下室にいる』と書き残したその地下室に。僕もその言葉が好きだ。なんだか撫でられるような気持ちの悪さがないか? 『地下室にいる』という、ここに省略された主語が『わたしは』でなかったとしたらどうだろう」
バキン・・・・・・と、床のあたりから音が聞こえた。いや、おそらく俺がそちらに意識を集中したからそう思われただけなのかも知れない。
「僕は、まだいるような気がするんだ」
師匠は目を泳がせて、笑った。
「彼か、あるいは、彼ではない別のなにかが。この家の地下室に。すくなくともこの家の中に・・・・・・」
その声は乾いた闇に吸い込まれるようにフェードアウトしていき、どこからともなく響いてくる金属的な軋みが絡み付いて、俺の背中を虫が這うような悪寒が走るのだった。
再びその暗い絵に視線が奪われる。そして言わずにはいられないのだった。あなたにはわかったんですかと。
ボキン、ボキンと骨をへし折るような空恐ろしい音がどこからともなく聞こえる中、師匠はすうっと表情を能面のように落ち着ける。
「わからない」
たっぷり時間をかけてそれだけを言った。
夜明けを待たずに、俺たちはその家を出た。結局、師匠の秘蔵品は拝まなかった。とてもその勇気はなかった。いいです、と言って両手を振る俺に師匠は笑っていた。
のちに師匠の行方がわからなくなってから、俺はあの家の家主を見つけ出した。1万1000円で家を貸していた人だ。
店子がいなくなったことに興味はない様子だった。なくなった物も、置いていった物もないし、別に・・・・・・とその人は言った。それを聞いて俺は単純に、師匠は自分の収集品を処分してから消えたのだと考えていた。
ところがその人は言うのである。
「ぼくがあの家を買い取った理由? それは何と言っても『地下室にいる』っていう興味深い書置きだね。だってあの家には地下室なんてないんだから」
結論から言うと、僕はその家をもう一度訪ねることはしなかった。何年かして、ある機会に立ち寄ると更地になっていたので、もう永久に無理なのであるが。
この不可解な話にはいくつかの合理的解釈がある。地下室があるのに、ないと言った嘘。地下室がないのに、あると言った嘘。そして『地下室にいる』と書いた嘘。どれがまっとうな答えなのかはわからない。
ただ、深夜に一人でいるとき、部屋のどこからともなく木の軋むような音が聞こえてくるたび、古めかしい美術品に囲まれた部屋の、ランプの仄明かりの中で師匠と語らった不思議な時間を思い出す。
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