マネキン
〜後編〜

その時

「トイレどこかな?」

とS子が立ち上がりました。

「廊下の向こう、外でてすぐ」

とF美が答えると、S子はそそくさと出ていってしまいました。そのとき正直、私は彼女を呪いました。私はずっと下を向いたままでした。もう、たとえ何を話しても、F美と意思の疎通は無理だろう、ということを確信していました。ぱたぱたと足音がするまで、とても長い時間がすぎたように思いましたが、実際にはほんの数分だったでしょう。S子が顔を出して

「ごめん、帰ろう」

と私に言いました。S子の顔は青ざめていました。F美の方には絶対に目を向けようとしないのでした。

「そう、おかえりなさい」

とF美は言いました。そのずれた言い方に卒倒しそうでした。

S子が私の手をぐいぐい引っ張って外に連れ出そうとします。私はそれでもまだ、形だけでもおばさんにおいとまを言っておくべきだと思っていました。顔を合わせる勇気はありませんでしたが、奥に声をかけようとしたのです。F美の部屋の向こうにあるふすまが、20センチほど開いていました。

「すいません失礼します」

よく声が出たものです。その時、隙間から手が伸びてきて、ピシャッ!といきおいよくふすまが閉じられました。私たちは逃げるようにF美の家を出ていきました。

帰り道、私たちは夢中で自転車をこぎ続けました。S子が終始私の前を走り、1メートルでも遠くへいきたい、とでもいうかのように、何も喋らないまま、自分たちのいつもの帰り道まで戻っていきました。やっと安心できると思える場所につくと、私たちは飲み物を買って、一心不乱にのどの渇きをいやしました。

「もう付き合うのはやめろ」

とS子が言いました。それは言われるまでもないことでした。

「あの家、やばい。F美もやばい。でもおばさんがおかしい。あれは完全に・・・」
「おばさん?」

トイレに行った時のことをS子は話しました。

S子がF美の部屋を出たとき、隣のふすまは開いていました。彼女は何気なしに通りすぎようとして、その部屋の中を見てしまったそうです。

マネキンの腕。

腕が、畳の上に4本も5本もごろごろ転がっていたそうです。そして、傍らで座布団に座ったおばさんが、その腕の一本を、狂ったように嘗めていたのです。

S子は震えながら用を足し、帰りにおそるおそるふすまの前を通りました。ちらと目をやると、こちらをじっと凝視しているおばさんと目が合ってしまいました。つい先刻の笑顔はそのかけらもなくて、目が完全にすわっています。マネキンの腕があったところには、たたんだ洗濯物が積まれてありました。その中に、男もののパンツが混じっていました。

「マ、マネキンは・・・?」

S子はついそう言って、しまったと思ったのですが、おばさんは何も言わないまま、S子にむかって、またにっこりと笑顔を見せたのでした。彼女が慌てて私を連れ出したのはその直後のことでした。

あまりにも不気味だったので、私たちはF美が喋って来ない限り、彼女とは話をしなくなりました。そして、だんだん疎遠になっていきました。この話をみんなに広めようか、と考えたのですが、とうてい信じてくれるとは思えません。F美と親しい子にこの話をしても、傍目からは、私たちが彼女を孤立させようとしているとしか思われないに決まっています。特にS子がF美とあんまり仲がよくなかったことはみんな知っていますから・・・。

F美の家にいったという子にこっそり話を聞いてみました。でも一様におかしなものは見ていない、と言います。だから余計に、私たちに状況は不利だったのです。ただ一人だけ、これは男の子ですが、そういえば妙な体験をした、という子がいました。

F美の家に言ってベルを押したが、誰も出てこない。あらかじめ連絡してあるはずなのに・・・と困ったが、とにかく待つことにした。もしかして奥にいて聞こえないのか、と思って戸に手をかけたら、ガラガラと開く。そこで彼は中を覗き込んだ。

ふすまが開いていて(S子が見た部屋がどうかはわかりません)、部屋の様子が見えた。浴衣を着た男の背中が見えた。向こうに向いてあぐらをかいている。音声は聞こえないが、テレビでもついているのだろう、背中にブラウン管かららしい、青い光がさして、ときおり点滅している。だが何度呼びかけても、男は振り返りもしないどころか、身動き一つしない・・・。気味が悪くなったので、そのまま家に帰った。

F美の家に男はいないはずです。たとえ親戚や、おばさんの知り合いであったところで、テレビに背中をむけてじっと何をしていたのでしょう?それとも、男のパンツは彼のだったのでしょうか。

もしかしてそれはマネキンではないか、と私は思いました。しかし、あぐらをかいているマネキンなどいったいあるものでしょうか。もしあったとすれば、F美の部屋にあったのとは別のものだということになります。

あの家にはもっと他に何体もマネキンがある・・・?

私はこれ以上考えるのはやめにしました。

あれから14年がたったので、今では少し冷静に振り返ることができます。私は時折、地元とはまったく関係ない所でこの話をします。いったいあれが何だったのかは正直今でもわかりません。もしF美たちがあれを内緒にしておきたかったとして、仲の良かった私だけならまだしも、なぜS子にも見せたのか、どう考えても納得のいく答が出ないように思うのです。

そういえば、腕をWの形にしているマネキンも見たことがありません。それでは服は着せられないではないですか。しかしあの赤い服は、マネキンの身体にピッタリと合っていました。まるで自分で着たとでもいうふうに・・・
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