第五話
語り部:蟻 ◆GJCUnhVBSE
ID:0rY4v2J80
【005/100】
『あの夜のミーティング』
大学生だったころ、私は学習塾で講師のアルバイトをしていました。その塾は、交差点角に建っているビルの二階フロアに入っていました。
一階にはコンビニ、道路を挟んだ向かいにはガソリンスタンドと、昼間はそこそこ賑わっている場所です。しかし、なにぶん田舎のベッドタウンなものですから、毎日授業が終わって生徒を帰宅させる二十二時ごろにはめっきり往来が減り、辺りを通るのは帰宅の途につく近隣住民ばかりです。
季節は初夏だったと思います。
クーラーを入れるほどではないにしろ、蒸し暑い夜でした。全ての授業を終えて生徒を全員帰してしまった後でしたが、空気の入れ替えをするため入り口のドアは開け放したままでした。最後に帰った生徒は私が居残りを命じた生徒でしたので、よく記憶しています。一つしかない入り口の外から、虫の音が聞こえてくるほど静かな夜でした。
その日出勤していたのは、塾長、男性講師一人、女性講師一人、そして私の四人。最後の生徒を帰し、ミーティングが始まったのは二十二時半ごろだったと思います。
フロアの一番奥に背の低いつい立で仕切られた一角があり、そこに講師用のデスク、教材をおさめた本棚が置かれています。授業前後のミーティングはそこで行われるのが通例でした。塾長を中心に全員が座り、男性講師が数学クラスの授業について報告している最中のことでした。
「……ちょっと待って」
メモを取る手を止め、塾長が顔を上げてこう言いました。
「誰か来た?」
――きゅっ、きゅっ
一瞬静かになったその時、確かに、フロア入り口の辺りからスニーカーのような足音が聞こえてきました。
「忘れ物かな」
塾長は立ち上がり、つい立の上に首を出して入り口のほうを伺いました。しかし、
「あれ?」
と怪訝な声を出し、そのまま入り口の方へ歩いていってしまいました。私達は座ったままだったので、つい立に遮られて入り口の様子は見えず、塾長が戻ってくるのを話しながら待っていました。すると
「ねえ、足音したよねえ?」
と、フロア入り口の方から塾長の声。
「しましたよー」
と私。他ふたりの同僚も
「うん、したよね」
「スニーカーだったよね」
と同調しました。しかし、
「……誰もいないんだけど」
と、塾長。
ぎょっとして立ち上がり、私達は全員入り口の方へ向かいました。本当に誰もいません。もちろん、フロアにいるのも私達四人だけ。ミーティングを行うスペース以外に仕切られた空間はありませんので、誰もいないのはひと目でわかります。塾長は入り口から外に出て、階段を降りてみたりエレベーターを覗いてみたりしましたが、やはり誰もいないようでした。
時間も遅かったせいか、何となく嫌な空気が流れました。が、
「オバケだったんじゃないですかー?」
「きっと聞き間違いですよ」
なんて茶化して、早いことミーティングを再開しようという流れになりました。みんな表面では「勘違いでしょう」という顔をしていましたが、なんとも気味の悪いものを感じていたと思います。だって、確かに全員、あのスニーカーのような足音が、確かに入り口へ入ってくるのを聞いたのですから。
再開されたミーティングはやはり淡白なものになり、みんなの(早く帰りたい)気持ちがにじみ出ていたように思います。それぞれの講師の報告が終わり、最後に塾長が明日の連絡事項を伝え始めました。各校の期末試験が近い時期でしたので、それに関する連絡だったと思います。
その最中でした。
――きゅっ、きゅっ。
はっきり聞こえました。紛れもない、スニーカーの足音です。みんなが無言で顔を見合わせました。洒落にならないのは、その足音がさっきのように入り口の方で聞こえたのではなくて、私達を囲むつい立の……すぐ裏側から聞こえてきたことでした。
(そこにいる!)
瞬間、つい立を背にして座っていた男性講師のF先生が立ち上がり、つい立をひっつかんで裏側を覗きました。私と女性講師のK先生は顔を見合わせたまま硬直していました。
「……何で誰もいねぇんだよ!」
とても穏やかで、何かと問題を起こす生徒に対しても声を荒げることのないほど温厚なF先生がそんな風に叫ぶのを、その時初めて聞きました。
どんな風にミーティングを終えたのかはよく覚えていません。ただ、スニーカーの足音は、それっきり、聞こえることはありませんでした。
誰も何も言いませんでしたが、塾長の仕事が終わるのを待って、全員で揃って帰ろうという空気になっていました。塾長と、女性講師のK先生にも仕事が残っていたので、彼ら二人は教室の真ん中の生徒席で並んで仕事をしていました。とてもではありませんが、つい立に仕切られたあの空間では仕事をする気にはなれないようでした。
仕事の終わった私と男性講師のF先生は、ベランダに出て話をしながら待っていました。まばらではありますが、車や人の通るのを見下ろしていると、少しずつ気持ちが落ち着いてくるようでした。
「蟻先生(私)、霊感とかってありますか?」
ないこともないのですが、あまりそういう話に乗ってしまうと引かれるかなあ、と思い、
「不思議な体験はあることにはあるけど、勘違いだったかもしれないしねぇ」
と、返事を濁しました。するとF先生は、
「俺、ああいうの初めてだったんですよ。幽霊なんて信じてなかったし、霊感とか全然ないって思ってたのに、あんなにはっきり聞こえるもんなんですね」
そう、確かに、スニーカーを履いている足だとわかるほどはっきりとした足音でした。私は
「そうだねえ」
と相槌をうちましたが、もう思いだしたくありませんでした。
「俺、最初は子供だと思ってました。スニーカーみたいだったし、塾だし、俺たちが入る前にここの生徒が亡くなったりとかしたんじゃないかなってちょっと思ったんですよ。けど違ったんですねぇ」
えっ?と思う私を尻目に、F先生はこう続けました。
「ちょっと年のいってるおじさんって感じでしたよね? あの『すみません』って声」
返事ができませんでした。そんな声、私は聞いていませんでしたから。F先生だけに聞こえていたのか、それとも私だけが聞き落としていたのかはわかりません。その夜のことは、後になっても、一度も蒸し返されることはありませんでしたから。
その塾を辞めて数年が経ちました。私と前後して、F先生も、K先生も相次いで辞めていったようです。塾長はもちろん残っていると思いますが、遠い地に引越しをした今、あの塾がどうなっているのか、私にはわかりません。
【完】
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