投稿者:水瓶座

タイトル:囁く声
わたしが通っていた中学校は、その近辺では一番古く、当然いろいろ噂がありました。今回はその中からひとつ。

わたしは吹奏楽部に入っていました。その中学校の吹奏楽部は、当時、コンクールでは毎年全国大会に出場し、様々なイベントに招待されては演奏し、一年のうち350日は朝夕とも活動しているような、吹奏楽関係者なら知らない者はいない(?)ほどの名門でした。その経験があって音大に進学したんですが、まぁそれは置いといて。

中2。県大会が終わって一息ついた頃だったような気がします。学校自体は休みの日で、一日中練習した後でした。

その日の練習メニューの最後は、個人練でした。個人練のときは皆散り散りになり、階段の踊り場やら教室やらでひたすらさらうんです。その日わたしは、2階の端にあるトイレ前の水飲み場で個人練をしていました。

ふと近くの教室の時計を見ると、既に集合時間5分前。練習の始めと終わりには必ず、点呼や連絡、反省会なんかをする『集合』がありました。

そして名門校なだけあって、それはもう厳戒な部則(校則じゃないのがミソ)があり、中でも『5分前行動』は基本中の基本。遅れようものなら先輩『方』(『達』すら使えないのがまたミソ)の恐ろしい指導が入ります。

慌てに慌てて、3階の反対の端にある音楽室へダッシュ。階が違うので、当然階段を昇ります。

そのとき

『練習しなくていいのー?』

という呑気な女子の声が、左耳にそっと届きました。

わたし達は常日頃から『現況に満足するな、いつでも自分は下手だと自覚して、暇さえあれば死ぬ気でさらえ』と先輩方に刷り込まれていたので、先輩の誰かだと直感しました。しかし今は時間に遅れ気味。もうパニックです。

そんな下手なのに練習切り上げてんじゃないよってこと?もっとさらってから戻ってこいってこと?

でも行かなきゃ。遅れたら遅れたでヤバい。

どうしようどうしようどうしよう!

バッ!と声のした方を見上げました。見上げたんです。声は上の方から聞こえたんです。

壁。

壁しかありません。

わたしは階段の左側、壁の真横を昇っていました。階段は踊り場を向かって右に折れて上に続いています。上から誰かが話しかけてきたとしたら、右側しか有り得ません。でも、左耳に囁かれたんです。しかも、階段を昇っているわたしの頭より、少し高いくらいの位置から。

よほど背の高い人でも、そんな位置に頭が来るわけがありません。そもそも視界には人影ひとつ見当たりません。

しばらく壁を眺めていましたが、はっとして、またしてもダッシュ。有り得ないところから囁いてきた声が怖かったのではありません。時間に遅れるのが怖かった(笑)。

やっと音楽室に着くと、既にわたし以外の全ての部員が集合していました。ギリギリ間に合ったのに、冷ややかな視線が注がれてホント怖かった…。

その後は囁きを聞くこともなく、高校も吹奏楽の名門を選ぶ部員は多くいましたが、わたしは名門につきものの『しきたり』が嫌で、敢えて県大会止まりの高校に進学しました。しかしたるんだ雰囲気の部活にうんざりし、自分達の代では結局中学時代の厳しさを一部導入。関東大会へと進み、全国への切符を次点で逃す、なんてところまでこぎ着けました。

今となって思うのは、厳しすぎてもダレすぎてもダメだということ。そしてあのときの声は、わたしと同じような気持ちで中学校を卒業していった先輩の、思念のような気がするんです。呑気ながらも、心配を含んだような、優しい声だったから。

そんな声を懐かしみつつ、現在のわたしは音楽の教師を目指しています。
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