「その鋏様に、自分が普段使ってるハサミを供えて、名前を3回唱える。すると近いうちにその名前を唱えられたコが髪を切ることになる」

おまじないの類か。女子高生らしいといえば女子高生らしい。

「その髪を切るってのは、やっぱり失恋の暗喩?」 「そう。ようするに自分の好きな男子にモーションかけてる女を振られるように仕向ける呪い。すでに出来上がってるカップルにも効く」

そう言いながら自分の前髪を人差し指と中指で挟む真似をする。

陰湿だ。

思ったままを口にすると、黒魔術サークルのオフ会に来てる男には言われたくないと冷静に逆襲された。

「で、その鋏様のせいでなにか困ったことが起こったわけだ?」

音響はパインジュースにようやく口をつけ、少し考え込むそぶりを見せた。その横顔には、年齢相応の戸惑いと冷たく大人びた表情が入り混じっている。

「うちのクラスで何人かそんなコトをしてるって話を聞いて、試してみた」
「自分のハサミで?」
「赤いやつ。小学校から使ってる。夜中にひとりで山にあがって、草を掻き分けてるとお地蔵さんの頭が見えて、それから目をつぶって鋏様を探した」
「目を閉じないと見つからない?」
「開けてると、わからない。全部同じに見える」
「真ん中とか、右端とか、先におまじないしてる子に聞けないのか」
「聞けない」
「秘密を教えたら呪いが効かなくなるとか?」
「そう」
「目を閉じてどうやって探す?」
「手探りで、触る」
「触って分かるもんなの?」
「髪の毛が生えてる」

音響がその言葉を発した途端、再び紙の繊維が裁断される音が俺の耳に届いた。

ぞくりとして身を起こす。

いつのまにか黒い長袖の裾から細い指が伸びて、俺のコースターを静かに引き裂いている。いつ、グラスを持ち上げられたのかも分からなかった。

恐る恐る、

「今、自分がしてることがわかってる?」

と聞くと、

「わかってる」

と少し苛立ったような声が返ってきた。

俺はあえてそれ以上追及せず、代わりに

「髪の毛って、苔かなにか?」

と問いかけた。

音響はそれには答えず、

「シッ。ちょっと待って」

と動きを止める。

溜息をついてオレンジジュースに手を伸ばしかけた時、なにか嫌な感じのする空気の塊が背中のすぐ後ろを通り過ぎたような気がした。未分化の、まだ気配にもなっていないような濃密な空気が。

周囲には、明るい店内で夜更かしをしている若者たちの声が何ごともなく飛び交っている。その只中で身を固まらせている俺は、同じように表情を強張らせている隣の少女に、言葉にし難い仲間意識のようなものを感じていた。

嫌な感じが去ったあと、やがて深く息を吐き彼女は

「とにかく」

と言った。

「私は赤いハサミを鋏様に供えて、名前を3べん唱えた」

目を伏せたまま、長い睫がかすかに震えている。

「誰の」

聞き様によっては下世話な問いだったかも知れないが、他意は無く反射的にそう聞いたのだった。

「私の」

その言葉を聞いた瞬間、俺の中の理性的な部分が首をかしげ―― 首をかしげたまま、目に見えない別の世界に通じているドアがわずかに開くような、どこか懐かしい感覚に襲われた気がした。

「なぜ」
「だって、何が起こるのか、知りたかったから」

ああ。

彼女もまた、暗い淵に立っている。

そう思った。

「で、何が起こった」

俺の言葉に、消え入りそうな声が帰ってきた。

ハサミの音が聞こえる……

「ちょっと待った。ハサミってのは、失恋で髪を切る羽目になるっていう比喩じゃないのか」
「わからない」

彼女は頭を振った。

「だって、いま好きな男なんていないし。失恋しようがないじゃない」

その言葉が真実なのか判断がつかなかったが、俺は続けて問いかけた。

「そのクラスの仲間に名前を唱えられた女の中で、実際に髪を切った、もしくは《切られた》やつはいるか」
「知らない。ホントに振られたコがいるって話は聞いたけど、髪の毛切ったかどうかまでは分からない」
「その、鋏様の所に置いてきたハサミはどうした」
「……ほんとは見にいっちゃいけないってことになってるんだけど、おとといもう一度行ってみたら……」

無くなってた。

音響は抑揚の薄い声を顰めると、

「どうしたらいいと思う?」

と続け、顔を上げた。

「その前にもう少し教えて欲しい。ハサミは一個も無かった? 自分のじゃないやつも?」

頷くのを見て、腑に落ちない気持ちになる。

「おまじないの儀式としては、ハサミは供えっぱなしで取りに戻っちゃいけないってことじゃないのか? だったら、どうして前の人が置いたはずのハサミが無いんだ」

願いが叶ったら取りに戻るという話になっているのかと聞いても、違うという。誰かが地蔵の手入れをしてるような様子はあったか、と聞いたが、完全に打ち捨てられているような場所で、雑草はボウボウ、花の一つも飾られていない、人から忘れ去られているような状態だというのだ。

何かおかしい。なにより、今さっき感じた嫌な空気の流れが、事態の不可解さを強めている。

「なあ、その鋏様っていうおまじまいは、昔からあるのかな。先輩から語り継がれた噂とか」
「わからない。たぶんそうじゃないかな」
「だったら、噂が伝わる途中でその内容がズレて来てるってことはありうるね。元は少し違うおまじないだったのかも知れない。例えば」

言うまいか迷って、やっぱり言った。

「ハサミを供えて、死んで欲しい子の名前を3回唱えれば……」

ガタンと丸い椅子が鳴り、頬に熱い感触が走った。

「あ」

と言って、音響は立ったまま自分の右手を見つめる。

平手だった。

「ごめんなさい」

そう言ってうつむく姿を見てしまうと、頬の痛みなどもはやどうでもよく、怯えている少女をわざわざ怖がらせるようなことを言った自分の大人気なさに腹立ちを覚えるのだった。

「わかった。なんとかする」

安請け合いとは思わなかった。司書をしているオカルト好きの先輩に泣きつく前に、自分の力でなんとかできるんじゃないかという算段がすでに頭の中に出来上がりつつあったのだ。

「とりあえず、その鋏様の場所を教えてくれ」

頷くと、音響はバッグから可愛らしいデザインのノートを取り出して、地図を描き始めた。

案内する気はないようだった。得体の知れないものに怯えている今は、それも仕方がないのかも知れない。

山への上り口までは簡単だが、地蔵のある場所までが分かりにくいはずだった。ところが、途中の目立つ木のいくつかに印がしてあるのだという。誰がつけたのかは分からないそうだが、過去から現在において秘密を共有している女子生徒たちのいずれかなのだろう。

「でもあんまり期待すんなよ」

音響は神妙に頷いた。

「でもどうして俺なんだ」
「さっき言った」
「2年も前のことを今更思い出したのか」
「……」

彼女はペンを止め、それを指の上でくるくると器用に回す。

「あのくだらないサークルにひとり、ホンモノがいるって聞いてた。倉野木っていうのが、あなたじゃないの」

俺は思わず肩を揺すって笑った。人違いだ、と言うと不審げに首をかしげていたが、まあいいわとペンを握りなおした。

地図が出来上がると彼女はノートのページを破り取り、俺に差し出した。右上に、小さく携帯電話の番号が書かれている。

「助けてくれたら、メチャ可愛い友だちを紹介してあげる」

生意気なことを言うので、

「お前でも十分カワイイぞ」

とうそぶいて反応を見たが、憎らしいことに平然としている。

「じゃあ」

と言って席を立つ彼女へ、とっさに声を掛けた。

「3つの地蔵のうち、どれが鋏様なんだ」

立ち止まって半身でこちらをじっと見ている。

「いいだろう? 秘密を教えておまじないの効果が消えたって。むしろそれで解決じゃないか」

迷うような素振りを一瞬見せたあと、音響は囁くような声でこう言った。

「みぎはし」

そして向き直ると逃げるような早足で店の自動ドアから出て行った。

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