黒い手

アパートの部屋に帰りつき、箱をあらためて見ていると気味の悪い感覚に襲われる。黒い手の噂はつい最近始まったはずなのに、この箱は古い。古すぎる。煤けたような木の箱で、裏に銘が彫ってあってもおかしくないた佇まいである。この中に本当に黒い手が入っているのだろうか。だいたい噂には、箱に入ってるなんて話はなかった。

音響と名乗るあの少女に担がれたような気もする。でも可愛かったなぁ。と、思わず顔がにやける。たぶん今日はオカルト好きが集まったのではなくて、少なくとも男どもは音響めあてで参加したのではないかという勘繰りをしてしまう。そうでなければ、開けろコールくらい起きるだろう。黒い手が見たくて集まったはずならば。

僕は箱の蓋に手をかけた。その瞬間に、さまざまな思いやら感情やらが交錯する。まあ、今でなくてもいいんじゃない。1週間あるんだし。僕は、つまり、逃げたのだった。そして箱を本棚の上に置くと、読みかけの漫画を開いた。

それから2日間はなにごともなく過ぎた。3日目、師匠と心霊スポットに行って、またゲンナリするような怖い目にあって帰って来た時、部屋の扉を開けるとテーブルの上に箱が乗っていた。

これは反則だ。部屋は安全地帯。このルールを守ってもらわないと、心霊スポット巡りなんてできない。ドキドキしながら、昨日本棚からテーブルの上に箱を移したかどうか思い出そうとする。

無意識にやったならともかく、そんな記憶はない。平静を装いながら僕は箱を本棚の上に戻した。深く考えない方がいいような気がした。

4日目の夜。ちょっと熱っぽくて、早々に布団に入って寝ていると不思議な感覚に襲われた。極大のイメージと極小のイメージが交互にやってくるような、凄く遠くて凄く近いような、それでいて主体と客体がなんなのかわからないような。子供の頃、熱が出るたび感じていたあの奇妙な感覚だった。そんなトリップ中に、顔の一部がひんやりする感じがして、現実に引き戻された。

目を開けて天井を見ながら右の頬を撫でてみる。そこだけアイスクリームを当てられたように、温度が低い気がした。冷え性だが、頬が冷えるというのはあまり経験がない。痒いような気がして、しきりにそこを撫でていると、その温度の低い部分がある特徴的な形をしていることに気づいた。いびつな5角形に、棒状のものが5本。

僕は布団を跳ね飛ばして、起き上がった。キョロキョロと周囲を見回し、箱の位置を確認する。箱の位置を確認するのに、どうして見回さなければならないのか、その時はおかしいと思わなかった。

本棚の上にあった。置いた時のままの状態で。けれど、僕の頬に触ったのは手だった。それもひどく冷たい手の平だった。思わず箱の蓋に手をかける。そしてそのままの姿勢で固まった。

昔から「開けてはいけない」と言われたものを開けてしまう子供ではなかった。触らぬ神に祟りなしとは、至言だと思う。でも、そんな殻を破りたくて、師匠の後ろをついていってるのじゃないか。そうだ。それに箱を開けたらダメだとか、そんなことは噂にはなかった。音響が言っているだけじゃないか。

そんなことを考えていると、ある言葉が脳裏に浮かんだ。僕はそれを思い出したとたんに、躊躇なく箱の蓋を取り払った。中にはガサガサした紙があり、それにつつまれるように黒い手が1本横たわっている。マネキンの手だった。

ハハハハと思わず笑いがこみ上げてくる。こんなものを有難がっていたなんて。

手にとって、かざしてみる。なんの変哲もない黒いマネキンの手だ。左手で、それも指の爪が長めに作られているところを見ると、女性用だ。案の定だった。

あの時、音響は確かに言った。

「結婚指輪でも買ってやれば・・・・・・」

つまり、左手で、女性なのだった。

「開けるな」と言っておきながら、音響自身は箱を開けて中を見ている。そう確信したから僕も開けられた。なんだこのインチキは。

僕はマネキンの手を放り出して、パソコンを立ち上げた。今頃あのスレッドでは担がれた僕を笑っているだろうか。ムカムカしながらスレッド名をクリックすると、予想外にも黒い手の話は全然出てきてなかった。

すでに彼らの興味は次の噂に移っていた。音響はなんと言っているだろうと思って探しても、書き込みはない。過去ログを見ても、あれから一度も書き込んでないようだ。

逃げたのか、とも思ったがなにも彼女に逃げる理由はない。俺に追及されても「バーカバーカ」とでも書けばいいだけのことだ。それにもともと音響は、常連の中でも出現頻度が高くない。週に1回か多くても2回程度の書き込みペースなのだ。あれから4日しかたっていないので、現れてなくても当然といえば当然なのだった。

ふいに、マウスを持つ手が固まった。週に1回か2回の書き込み。

心臓がドキドキしてきた。去っていった恐怖がもう一度戻ってくるような、そんな悪寒がする。気のせいか、耳鳴りがするような錯覚さえある。過去ログをめくる。

『黒い手を手に入れた』日曜日

僕が目に留めた音響の書き込みだ。そしてその次の音響の書き込みは・・・・・・

『いーよ』金曜日

5日開いている。ちょうどそんなペースなのだ。だから、おかしい。その翌日の土曜日に音響は黒い手を僕にくれた。だから、おかしい。音響が黒い手を手に入れてから、その土曜日で6日目なのだ。

黒い手に出会えたら願いがかなうそのためには黒い手を1週間持っていないといけない。たとえどんなことがあっても。信じてないなら、持っていてもいいはずだ。あとたった1日なんだから。それでなにも起きなければ、「やっぱあれ、ただの噂だった」と言えるのだから。

信じているなら、持っていなければならないはずだ。あとたった1日なんだから。それで願いがかなうなら。どうしてあとたったの1日、持っていられなかったんだろう。

頭の中に、箱を持った僕をファミレスのガラス越しにじっと見ていた音響の姿が浮かぶ。当時そんなジャンルの存在すら知らなかったゴシックロリータ調の格好で、確かにこっちを見ていた。その人形のような顔が、不安げに。ただのマネキンの腕なのに。

僕は知らず知らずのうちに触っていた右頬に、ギクリとする。忘れそうになっていたが、さっきの冷たい手の感覚はなんなのだ。振り返ると、箱はテーブルの上にあった。黒い手は箱の中に、そして蓋の下に。一瞬びくっとする。

僕はゾクゾクしながら思い出そうとする。「放り出した」というのはもちろんレトリックで、適当に置いたというのが正しいのだが、僕は果たして黒い手を箱に戻したのだったか。

箱はぴっちりと蓋がされて、当たり前のようにテーブルに横たわっている。思い出せない。無意識に、蓋をしたのかも知れない。でも確かなことは、僕にはもうあの蓋を開けられないということだ。

徐々に冷たさが薄れかけている頬を撫でながら生唾を飲んだ。5角形と5本の棒。1本だけ太くて5角形の辺1つに丸々面している。親指の位置が分かればどっちかくらいは分かる。その頬の冷たい部分は右手の形をしていた。

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