ナナシ
今から数年前,僕と僕の友人だった人間が、学生だったころの話。ときは夏休み、自由研究のため、友人…仮にナナシとするが、僕はそのナナシと、「心霊現象」について調べることにした。

ナナシはいつもヘラヘラしてるお調子者で、どちらかといえば人気者タイプの男だった。いるかいないかわからないような陰の薄い僕と、何故あんなにウマがあったのかは、今となってはわからないが、とにかく僕らはなんとなく仲がよかった。なので自由研究も、自然と二人の共同研究の形になった。

また、心霊現象を調べようと持ち掛けたのは、他ならぬナナシだった。

「夏だし、いいじゃん。な?な?」

しつこいくらいに話を持ち掛けるナナシに、若干不気味さを感じながらも、断る理由は無かったし、僕はあっさりOKした。

そのとき僕は、ナナシはそんなにオカルト好きだったのか、そりゃ意外な事実だな、なんて、くだらないことを考えていた。

「どこ行く?伊勢神トンネルとか?」

僕は自分でも知っている心霊スポットを口にした。しかしナナシは首を横に振った。

「あんな痛いトコ、俺はムリ」

そのナナシの言葉の意味は、僕は今も理解ができないままでいる。何故「怖い」ではなく「痛い」なのか、今となっては確かめようがない。だが、ナナシは確かにそう言った。

話を戻すが、ナナシは僕が何個か挙げた心霊スポットは全て事々く却下した。意見を切り捨てられた僕は、いい加減少しムッとしてきたが、ちょうどそのとき、ナナシが言った。

「大門通の裏手に、アパートがあるだろ。あそこにいこう」

そのアパートの存在は、僕も知っていた。もっとも、心霊スポットだとかオカルトな意味じゃない。天空の城ラピュタとかに出てくるような、蔦や葉っぱに巻かれたアパートで、特に不気味なアパートってわけではないが、入居者はおらず、なのに取り壊されることもなく、数年…下手したら数十年、そこに在り続けているアパートだ。

「あんなとこ行っても、なんもねーじゃん。幽霊がいるワケじゃなし」 「いいから。あそこにしよう。」

ナナシは渋る僕を強引に説き伏せ、結局、翌日の終業式のあとに、そのアパートに向かうことになった。



時刻は午後4時36分。僕らはアパートの前にいた。

終業式を終え、昼飯を食べてから、しばらく僕らは僕の部屋でゲームなんかをしたりした。何故すぐにアパートに向かわなかったのか、向かわないことを疑問にも思わなかったのか、あの時の僕にはわからなかったし、今の僕にもわからない。

ただ、すぐにあのアパートに向かわなかったことを、僕は未だに後悔している。否、あのアパートに行ってしまったことを、後悔してるのかもしれない。

とにかく、しばらく遊んだあと、唐突にナナシが

「さ、そろそろかな。」

と言い、僕はナナシに手をひかれてあのアパートに向かった。そのときのナナシの横顔が、なんだか嬉々としていたような、逆に悲しげなような、なんとも言えない表情だったことを、僕は忘れないだろう。

そして、僕らはアパートに着いた。ナナシはひと呼吸置くと、

「終わった、な。」

と言った。

その言葉の意味がよくわからなかった僕は、ナナシに聞き返したが、ナナシは無言のまま僕の手を引いた。

いつものナナシじゃない、お調子者のナナシじゃない。

そんな不安が胸元にチラついたが、ナナシは構うことなくアパートの階段を上る。そして、「302」とプレートのついた部屋の前に立った。

異様な空気が、僕の背中を掠めた。

「ナナシ…?」

ナナシは答えないで、ドアの前にあった、枯れた植木鉢から鍵を取り出し、ドアを開けた。

すると、そこには。

「人間だったもの」が、あった。



「うぁあぁあぁあっ!!!」



僕は大声を上げてヘタリこんだ。

玄関先には女のひとが倒れていて、はいずるように俯せている。その体の下からは、夥しい量のまだ生々しい赤黒い血が、水溜まりのようになっている。

僕はガタガタ震えながら、ナナシを見た。でも、ナナシは、



「あはははははははははははははははは!!!!!!」



笑っていた。

僕はナナシが発狂したのかと思ったけど、そうじゃなかった。

「見ろよ!!これが人間の業なんだよ!!ラクになりたくて死のうとしたって、死ぬことにまだ苦しむんだ!!この女、2日も前に腹をかっさばいたんだぞ!!2日だぞ!!2日も死ねなくて、痛い痛いって死んだんだ!!痛い苦しい助けてって、声も出ないのに叫びながら死んだんだよ!!!!死にたくなって腹を切ったのに、死にたくないなんて我が儘もいいとこだ!!」

ナナシが早口でまくし立てる。僕は、死体よりも、血よりも、何よりも、ナナシが凄くこわかった。

「死にたくないなら死ぬんじゃねぇよ!!!!死にたくなくても死ぬんだから!!!!馬鹿馬鹿しいにも程がある!!!神様なんていやしない!!!助けてくれるやつなんか、世界が終わっても来やしないんだよ!!!!」

ナナシは叫び続けた。僕はナナシに必死にすがりついて、わけのわからないことを口走りながら、泣いた。

しばらくして、我にかえると、ナナシが僕の頭を撫でていた。

「警察、呼ばないとな。」

ナナシは、そう言った。さっきまでの凄まじい形相のナナシはいなかった。でも、僕の友達だった、ヘラヘラ笑うお調子者のナナシも、もうどこにもいなかった。

僕らは警察を呼び、簡単に事情を聞かれて、家に帰された。僕らは一言も口を聞かぬまま、別れた。

その日、僕はいろんなことを考えた。

何故、ナナシはあのアパートに行こうと言い出したのか。
何故、ナナシはあの女のひとが2日前に自殺を図ったことを知ってたのか。
何故、ナナシはあの部屋の鍵の場所を知ってたのか。

ナナシがつぶやいた、「終わったな」って、なんだったのか。

オカルト的な考えになるが、きっとナナシは、死人の声みたいなものが聞こえるんだろう。死ぬ間際の、断末魔なんかが聞こえるタチなんだろう。ナナシが

「終わったな」

って呟いたとき、あの女のひとは死んだんだろう。鍵の場所も、あの女のひとの生き霊みたいなものが、助けてほしくて、教えてくれたんだろう。

でも、僕らは間に合わなかったのだ。僕はそう考え、凄く悲しくなった。僕らが間に合わなかったせいで、あのひとは死んだんだ。まだ、助かったかもしれないんだ。

僕らが早く行っていれば−−

そこまで考えて、僕はひとつの疑問が浮かんだ。

もし、もしさっきの仮説が正しくて、ナナシに不思議な力があるなら。何故、ナナシはすぐにアパートに向かわなかった?何故、ナナシはすぐに警察なり救急車なりを、昨日の時点で呼ばなかった?

否、否否否。ナナシが早口でまくし立てていただけで、本当に自殺かどうか、実際はわからない。まして、あの部屋には、血溜まりと死体はあっても、凶器なんかは見当たらなかった。

否、否否否。それ以前に、それ、以前に。僕らが部屋に入ったあの時点で、本当に、あのひとは死んでいたのか?もし、まだ死んでなかったなら。そして、自殺じゃなかったなら、そこまで考えて、背筋が凍った。

それからしばらく、僕はナナシとマトモに喋ることができなかった。その後、ナナシと僕はある事件をきっかけに永遠の断絶を迎えるが、それはまた別の話。
⇔戻る