新約雨月物語

Aは苛立っていた。彼は商社の営業部に勤めているのだが、今日は昔からの顧客が離れていくのを止めることもできず、そのため上司に部下の目の前で叱られたのだった。

元はといえば、自分の会社が作るものに魅力が欠けるからなのだが、上司は日頃のストレス解消もかねてAを徹底的にいびった。

そのため、Aもストレス解消することにしたのだが、部下に当たるわけにも行かず、帰宅してから当てもなくドライブに出た。

しばらく運転しているうちに、すっかり暗くなってしまい、もうそろそろ帰らないと明日の仕事に差し支えるという時間になった。そのときAは自分が生まれ育った町の近くにきている事に気がついた。この町の郊外に小さい頃住んでいた家があった。

(……懐かしいな。毎日夕方になるとここでサッカーやってたっけ……)

風化した記憶をつなげ合わせ、少しため息をつく。ぼんやり考えているうちに、記憶は家族のそれ、特に母親に焦点を合わせていく。Aの母親は夫を亡くしてからずっとAを一人で育て上げてくれたのだった。

(母さん、元気にしているかな)

上京してから長い間、Aは母親としゃべっていなかった。全てが目まぐるしく変わる日々に置いてきぼりにされまいと必死だったために、家に連絡する余裕がなかったのだった。少し思い出に浸ってから、Aは自分の生家に行ってみようと決めた。

その家は郊外にあり、林道を通って小さなわき道に入るとすぐの、結構古い家だった。大きい方で、前庭にも裏庭にも木が何本も立っていた。Aは半分それらの木が荒れ狂ったように伸びているだろうと考えていたのだが、意外と整理されているのを見て驚いた。

(もしかすると、誰か住んでいるのか?あんなに古い家に?)

Aは淡い期待を胸に車を進めていった。すると、見慣れた前庭と、明かりの灯った生家が目の前に現れた。

Aは戸惑い、ためらいつつも呼びベルを鳴らした。

「はい、どなた?」

この声は……

足音が近づき、ハンドルがゆっくりと回り、ドアが開いた。Aは唾を飲み込んだ。

「あら……」

それが母の最初の言葉だった。Aはただいま、と言おうとしたが、うまく言葉にならず、ただ泣きながら母に抱きついた。

「まあ、それじゃあ今日は大変だったね」
「そうだね」
「でもね、お母さん、その人もつらいんだと思う。上に立つ人って、精一杯背伸びしてるから、少しでも足を引っ張られると倒れちゃうんだよ。だから必死なんだと思う」

不思議と母の言葉は胸にじんと来た。Aは味噌汁をすすりながら母に感謝した。

「ところで母さん、一人でこんなに大きい家にいると、何かと不便でしょ」
「そうねえ」

母は遠い目をした。

「最初はつらかったけど、今はもう楽よ。大丈夫」
「家、動こうと思わなかったの」
「そりゃあね、最初はそうしようかと思ったわよ。でもね、あなたが帰ってきた時、誰もいないんじゃ寂しいでしょ。だから待ってたの」
「え?」
「来てくれてありがとう」

母は笑った。いい笑顔だった。

Aは少しの間考えると、母に向かって言った。

「母さん、俺と一緒に住まないか」
「え」

母はきょとんとした目でAを見た。

「俺と一緒に住もうよ。便利だし、寂しくないし」
「そうねえ……でも、もうそういうわけにもいかないのよ。ちょっとねえ……」

母はそういって居間にある位牌に目をやった。Aはそれを見て口をつぐんだ。ここはAの生家だが、それ以前に母と父の思い出の場所だのだ。

「ごめん……」
「謝ることないよ。それより、明日早いんでしょ?もう寝なさい」

腹もくちくなって、Aは眠たくなったが、その前に会社に送るものがあったので、ダイニングにある自分のコンピュータ(といっても子供の頃のだが)に向かった。

「あら、またインターネット?あなた変わらないわねえ……」
「まあね……あれ?」

Aは画面を見た。コンピュータは無事起動したのに、スクリーンが真っ黒だった。

「どうしたの?」
「故障かな?」

すると、徐々にスクリーンに文字が浮かび上がってきた。それは……

「目 を さ ま せ」

「目を覚ませ?変だな」
「変ねえ、これから寝るって言うのに」

首をかしげながらAは寝室に行った。

次の日の朝、Aは水滴が顔に当たる感触で目が覚めた。目を開けると見慣れた懐かしい天井があった。雨漏りかなと思いながらキッチンに行く。すると、母が朝ごはんを作っていた。

「あらおはよう。ご飯食べる時間ある?」
「今日は休みなんだ。ああ、それより変な夢を見たんだ」
「夢?」
「なんだかね、誰かが耳元で目を覚ませ、って言ってくるんだね。で、ふと顔を上げると、母さんが少し悲しそうな顔をしてるんだ」
「変ねえ……」

Aは朝食を終えると、またコンピュータに向かった。すると、また画面が「目をさませ」と警告を発してきた。首をかしげると、玄関のほうでがたんという音が聞こえた。驚いていってみると、ドアが蝶番から外れていた。

「母さん、ドアが壊れてるよ」

Aは母を呼んだが、答えがない。何度呼んでも同じだった。不審に思い、Aはキッチンに行ってみて驚いた。

なんとそれはついさっきまで母がいたキッチンとは似ても似つかなかったのだ。タイルにはカビが生え、洗い場には錆が浮き、あたかも何年も放置されているようだった。Aは急いで居間に行ってみた。すると、そこに昨日あった家具は消えうせ、畳も変色しており、クモの巣だらけだった。

ふと、母との会話が頭の中をよぎる。

(そうねえ、最初はつらかったけど、今はもう楽よ)

今はもう楽?Aは妙な胸騒ぎを覚えて自分の寝室に行ってみた。途中で廊下がみしみし鳴る。寝室の扉は壊れて開きっぱなしで、天井は穴だらけだった。

(もうそういうわけにもいかないのよ。ちょっとねえ……)

Aは怖くなって家を出た。玄関のドアを蹴り破って、外に出る。すると、昨日見た整理整頓された前庭の代わりに、荒れ果てた野原が広がっていた。

(あなたが帰ってきた時、誰もいないんじゃ寂しいでしょ。だから待ってたの)

Aはゆっくりと振り返った。生家はわずかにその面影を残していたが、どう見ても廃屋だった。

(来てくれてありがとう)

Aはふと、母の声を聞いて繰りかえったが、無論そこには誰もいなかった。

風が吹いたとたん、懐かしい味噌汁の匂いがしたので、Aの頬から涙が流れ落ちた。
⇔戻る