壁のシミ
ウニさんの大ファンの俺が初投稿直後に生ウニさんと遭遇。感激すると共に直後の投稿に果てしなく腰が引けていたり。
奇妙な足音について語る上で外せないのがウチの母親。今回は実の親ながら不可解極まりないオカンの話。
母親曰く
「私に霊感は無い」
との事だが、少なくとも俺と弟はそんな自己申告を1mmも信用していない。若い頃に巫女をしていたからなのか、母親の語る体験談はどれも奇妙なことこの上ない。
ビビリな俺が不気味な体験談を楽しく聞いていれたのは、そのどれもが母親が独身時代に体験した事、つまり大昔の話だったからだ。自分が巻き込まれる事は無い。その事実を強みに思っていた消防時代の俺だったが、ある朝、目覚めて僅か数秒で腰が抜けそうになる事態に出くわした。
安普請のアパートの一室、3兄弟が並んで寝る子供部屋の壁に一夜にして“人の形のシミ”が現れていた。
当時住んでたアパートは2LDKのボロい所で、両親が寝る部屋と俺達が寝る部屋は押入れで繋がっており、押入れの横の薄い壁は空洞になっていたように思う。その壁にシミだ。
“あなたの知らない世界”を見て育った俺にとっては、耳にしてきた怪談の中でそういうものがあるとは知っていたが、まさかそれが自分の目の前に現れるとは思ってもいなかった。大体“人の形のシミ”は壁に塗りこまれた死体の怨念が染み出してくるといった話の筈だ。こんな薄い壁にどうやって死体を隠すと言うんだ。
怪談としても成立し得ない不可解な現象にパニクった俺は弟を叩き起こし、2人で慌てて母親を呼びに行った。
低血圧な母親は無理やり叩き起こされて子供のように愚図っていたが、こっちとしてはそれ所じゃない。無理やり母親の手を引いて、子供部屋に連れて来て問題の壁のシミを見せた。
改めて見るとハッキリとそれが何なのか分かる。イスラームの女性だ。
そのヒトガタは体から頭、口元までをすっぽりと布で覆っていた。見えているのは目元だけだが余計に気色悪い。だって見えているそれが“目”である事も分かるくらいクッキリとしたシミなのだから。
「ね? こんなの昨日まで無かったでしょ?」
縋るように見上げた母親の顔は不快感で僅かに歪んでいた。
「これね」
母親がシミを見つめながら呟く。
「お母さんが昨日見た夢の中に出てきた女の人」
もう許容範囲外どころの騒ぎじゃない。そんな台詞を聞きたくて呼んだ訳じゃないのに、お陰で恐怖感は天井知らずだ。
脅えまくる俺達を尻目に母親が訥々と語り出す。
母親は夢の中で夜の砂漠を一人、歩いていたそうだ。煌々と満月の輝く、寂しい風景だったと言う。
しばらく当ても無く砂漠を歩いていると、向こうから人影が近付いてくる。ベールで目元以外をすっぽりと覆い隠した、異国の女性だった。若いのか年老いてるのかも良く分からないその女は、両手に赤子を抱いていたと言う。
言われて慌ててシミに向き直す。確かに、“彼女”の胸元には布に巻かれた何かが抱かれていた。もう赤ん坊にしか見えない。
彼女は母親に黙って赤子を差し出した。母親は“受け取れ”と言う意味だと思ったらしい。
「私はその子を受け取れない」
母親が頑として突っ撥ねると、彼女はしばらく感情の読み取れない眼で母親を見ていたが、やがて諦めたように踵を返すと、赤子を抱いたまま元来た道を戻り再び夜の砂漠に消えたと言う。
「止めてよ気持ち悪い!」
耐え切れなくなって叫んだ。弟は萎縮しまくってて声も出さない。
「じゃ何? この女の人はお母さんに断られたから僕らのトコに来たって言うの!? 赤ちゃんを渡しに!?」
「かもね」
あっさりと肯定しやがった。冗談じゃない。何で縁も所縁も無い女にそんなもの押し付けられなきゃいけない。しかも母親に断られたから俺達の方に来るとは粘着質にも程がある。
得体の知れない恐怖と混乱に苛々して母親に当り散らしたが
「お昼まで待ちなさい」
壁を見つめたまま母親はそう呟くだけだった。
信じて昼まで待ってた俺達の前に現れたのは、近所のホームセンターで薄いベニヤ板を購入してきた親父だった。除霊とかお札とかを予想していた幼い兄弟の期待は無残にも裏切られ、親父は久し振りの日曜大工にご機嫌なご様子で鼻歌交じりにベニヤを鋸で切ると、問題の壁に釘で打ち付け始めた。
所要時間15分足らずで作業は完了し、問題のシミは視覚上だけ“無かった”事にされた。
これで今日もここで寝ろと!?ベニヤ板の上からまたシミが浮き出てきたら!?
俺と弟は口々に不満を爆発させたが、俺の仕事に不満があるのか!?と親父の理不尽な鉄拳制裁で武力制圧され泣き寝入るしかなかった。
結局、それから新たな何かが起こる事は無かった。数日間は真新しいベニヤ板の向こう側に脅えて寝るどころではなかったが、2日経ち、3日経ち、何事も無い事を確認すると急速に恐怖感は薄れ、何時しかそこにシミがあった事すら忘れたまま、俺達は数年後マイホームに引っ越した。
とんとんとん。
もそもそとリビングで2人っきり、夕飯を食っていた俺と母親は同時に天井を見上げた。2階の俺の部屋から“足音”が数歩分響き、消えた。
あの日以来、怪音現象は起きたり起きなかったりだ。ただ、分かって来た事が幾つかある。
“足音”は2階にある俺の部屋の中とその周辺、そして階段の中程と限定された場所以外から聞こえない。
それともう一つ。マイホームと言っても安普請。大人が遠慮なく歩けばドスドスと鈍い音が響く。対して “足音”は余り響かない。心なしか歩幅も狭いように思える。子供の足音のように。
自分の考えにぞっとすると同時に、何故かあの壁のシミを思い出した。俺達が引っ越した後、あの部屋に誰か住んでいるのだろうか。あのベニヤ板は今どうなっているだろうか。
ふと試しにアパートの話を振ってみた。母親曰く、あの部屋も既に誰かが入居しており、ベニヤ板もそのままらしい。
「何で」
「ん?」
「赤ん坊を受け取らなかった? オカンにしては珍しい」
母親は保育園で保育士のマネゴトのような仕事をしている。子供が大好きな人だから、早く孫の顔を見せたいとは常に思っているが、中々相手を捕まえられない自分を不甲斐無くも思っている。
「子供好きだろ?」
「あの子はね」
「ん?」
「あの子はお母さんじゃダメなの」
「ああ、まぁそりゃ実の母親が育てるのが一番だろな…夢の中で“実の母親”とかも無いだろうケド」
母親の言葉に何らかの含みを感じつつ、ぼんやりとそんな台詞を返す。母親も「んー」と珍しく生返事を返し、お新香をバリバリと噛んだ。
ああ、そう言えば。
「あのさ、俺以外に誰か帰ってきてる?」
「ん? お兄ちゃんは泊り込みで仕事、小吉(弟)は10時頃帰るって言ってたし、お父さんはカラオケ」
「じゃあさ、さっき2階で足音したのは何だ?」
そう言えば気付いた事がもう一つ。“足音”は誰にでも聞こえる訳ではないらしい。あれから親父と兄貴、それぞれといる
時に怪音を耳にしたが、2人とも
「何も聞こえない」
と首を傾げるだけだった。
では母は?
確かに先程のあの時、母親は俺と一緒に天井を見上げていた。母親は一瞬きょとんとした顔をして、しばらく俺の顔をじっと見つめた後、
「気の所為でしょ」
と笑った。
絶対聞こえてやがる、と気付きはしたが、母親が“足音”の正体に薄々気付いていた事まではこの時はまだ気付かなかった
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