八房の恨み

「この犬は普通の犬じゃありません。それでもいいんですか?」

それが私が後に八房と名づける犬を引き取ると口にしたときの団体の担当者の言葉だった。詳しく話をきいてみるとこういうことらしい。

八房は一度ある非営利の動物愛護団体にひきとられたあと、足をへしおられた。それが偶然であったか故意であったかはさておき、病院にもつれていかれずに曲がってくっつくまで放置されたのは間違いないという。

動物愛護団体がひきとった筈の犬がなぜそんなことにと問うと。担当者は泣きそうな顔をして、好きだからやってる所ばかりじゃないんですよねと前置きをしておしえてくれた。

それまでも話にはきいていたが、大衆の同情をひきそうな動物ばかりをひきとって寄付金を狙う団体も少なくなく、彼を引き取った団体も実態はそういうものだったらしい。だが八房はその目的、集金のためには不適格だったらしく的確にするためにそんな目に合わされた。

いつもは我々に抗議をしにくる立場の団体の人が萎縮した姿だったのはこれがはじめてだ。(ちなみにこのときの私の職は保健所の職員である。)

どれだけそれが重大な事と相手が痛感していることか理解して私は追求したりせず話を先に進めた。どうして、その団体の人が来ないのか。何故別の団体がもってきたのかと聞くと該当の団体が既に解散していると教えられた。団体はなくなっても人は残るだろう?とまで問う気はおこらなかった。

「近くの施設で処分していただこうとしていたのですが。この犬ここに来たがってまして」

どういう事かと問うと、抗議用のリストのたばねたファイルをひらいているときまってそのリストを凝視したのだという。施設につれていくことが決定した時も、ここ以外のところに連絡をとろうとすると盛んに吠え立てたという。静かにしているときはきまってやけに電話の音が遠いとかノイズがやたらとするのだそうだ。

「多分あなたが目的だったんですね」

気遣わしげにこちらをうかがう担当者の前で私は重苦しくうなりながら鼻から息を抜いた。その時あらためて八房の顔をみると、あることにきづいた。

私は引き取られていく前八房の世話係だった。なつかれていたし、憎からずおもっていた。しかし上司から一匹ひきとれば次から次。それで生活が崩壊したものも沢山いると教えられていた為自分でひきとることはなかった。結果、酷い場所にひきとられ苦しんだ八房は私の行為を裏切りと考えるようになったのだろう。彼女につれてこられていこうまったく私からそらされない視線には憎悪が宿っているように感じられた。

「どちらにしても。とてもではないけれどうちでは他の引き取り先もみつけられないんです。かわいそうだけど処分するしかありません。だから引き取っていただけるならこんなに嬉しいことはないんですけど。」

そんなことを言う担当者に私は彼女の抱く懸念ではなく何故引き取り先もみつけられないのか問うた。彼女はおずおずと封筒を差出し目をそらす、私は中身を見て言葉を失った。カメラが向けられることをいやがっているからその顔は威嚇と怒りにゆがんでいたが、そんなものはかわいらしい。どうみても犬やら猫やら動物の顔としか思えない模様めいたものがいくつも浮かんでいたのである。

「カメラをいやがるだけだったらいいんですけど。撮る度こんなではとても支援者のかたにはみせれないんです。」

そういわれているあいだ中わたしは八房をながめた、相変わらず八房は私をにらみつけている。ケージの中から向けられる射抜くような視線、ケージからだされたら首にでもくいつかれそうだった。

しばらく無言でいたことを担当者はひきとる気が失せたとおもったのか、封筒にいれられた金を出し

「供養はてあつくお願いしいます」

と声をひそめた。

「餌代としてもらっておきますよ。これから物入りになりそうなので。そういうことならいいでしょう?」

そういって私がふところにそれをしまうと彼女は驚いて顔をあげた。にらみあいのあいだに私は彼の名前をすでに用意していた。

「よくも悪くもこんなに霊験あらたかな犬なんてほかにいないでしょ? な、八房」

考えた名をよんでみるとはじめて音で意図を示された、ぐるるという唸り声。返事をするということは気に入らなかったわけじゃなかろうと。

「でも… 危ないですよ。解散した団体にも不可解なことがいくつも」

心変わりをうながそうとする担当者を手で制し。

「これが一番なんです、私にとっては。」

そういいながらどうやって示したものか考え、思いつきでジャーキーを取りだし試しにケージについた穴に近づけた。指にかみつかんばかり(というか最初からそのつもりだろう)に勢いよくだがくらいついてはくれた。

「ね?普通の犬じゃこうはいかない。警戒して食わないところです。私ならうまくやってけます。」

すでに八房との生活のプランは頭の中にあった。自信をもっていうと担当者は八房とわたしをみくらべたあと、しばし話をしてから去っていった。

こうして私は八房の犬となった。

彼は生きている間にかずかずの不幸を私にもってきてくれた。保健所の中にやってくる犬達の中で情を通わせた犬がいると感づいて吠え立てる。引き取れと命じるのだ。基本的にわたしは八房の命令に忠実だった。だが、家計のためにとやむなく見捨てた時は医者にも原因不明だという高熱に一週間もやられたものだ。人間が動物に都合をおしつける世の中で、八房だけが動物の都合を人間におしつけられる立場だった。

とはいえそれではこっち餓死するし、そうなると犬達の面倒は到底できない。さしもの八房も人間の言語まではわからずディスカッションは混迷を極めたが辛うじて私の生存ラインの出費の範囲内で納得してもらえるようになった。

だがそんな幸せな生活も長くはつづなかった。彼はたかだか三年私のもとで生きて、亡くなってしまった。八房の魂がまだ肉の内にとらわれている内になんとか八房との関係修繕をしたかった。

今私は自宅に飼っている犬を人質として辛うじて八房の祟りを免れているに過ぎない。八房のためにたてた供養塔を撮影してそれは確信に変わった。引き取る前にみせられたものより格段に犬の顔は増えている。
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