頬に触れる何か

あの出来事は今でもハッキリと記憶に残っている。一昨年の早春、大学にも合格し遊ぶ金が欲しいと、その俺は郊外のビデオショップで働き始めた。

学校帰りに店に入り、仕事が終わるのは12時もまわった深夜。誰一人残っていない店を清掃し、レジを閉め。最後に電気を消し、シャッターを閉じる。いつもの動作だった。あれが見えるまでは…

周りのシャッターを閉め、入口のドアに鍵をかけた時だった。うっすらと店の奥に明かりが見えたのだ。

「やっば、事務所の電気消し忘れちまった…」

ため息をつきながら、俺は閉めた鍵を開き店の中に戻った。暖房も切り、すでに寒くなっていた店内。俺は小走りに奥の扉、事務所のドアへ向かい、そして開いた。

「あれ…」

確かに明かりが見えたはずなのに…。事務所は真っ暗で、奥の非常灯だけが光っている。

見間違いかと一人愚痴を言いながらドアを閉め、正面入口に戻った俺は、不意にレジに人影を見た気がした。が、誰もいない。気になったのでカウンターの中も確認するが、やはり誰もいなかった。

「疲れてるんだな…」

と、一人納得し、その日は家に帰った。

だが翌日、再び学校帰りに店に入ると普段寡黙な店長が突然俺を事務所へ呼びだしたのだ。

「○藤くん、昨日ちゃんと鍵は閉めたよね?」

突然何を言うかと思えば、確かに俺は昨日疲れていたかもしれないが…そもそもここの鍵はドアに固定で刺しっぱなし、出るときは鍵を抜いて閉める。店長の鍵と、俺の持ってる予備の鍵しかない。ポケットの中に鍵があった、ということは確実に閉めたはずなのだ。店長の話では朝シャッターが閉じられていなかったという。そして鍵が無いのに、ドアが半分開いたままだったというのだ。泥棒か?そう思った店長は台帳からレンタルリストを調べたがなくなったビデオは無かったという。

一瞬背中をゾクリと何かが撫でた気がした。もしかしたら昨日の夜…あの暗い店内で俺以外の誰かがいたのかもしれないのだ。

その翌日から店の鍵が変えられた。最初は俺に疑いを持っていた店長も、ありえないことだとわかってくれたらしく何も言わなかった。だが、その日の夕方…俺と交代で帰宅するアルバイトの女の子が俺に声をかけてきた。

少しおどおどした様子の彼女は、周りに人がいないことを確かめ俺に声をかけた。

「もしかして…見た?」

何の話かわからず、とりあえず首を振る俺。彼女はホッとした様子で…

「見たらここ…辞めた方がいいわよ。閉店作業の人には悪いけど、ホントに…危ないから」

彼女はそのまま、俺が何のことなのか聞いても何も言わず帰っていった。気にならないわけがない、今日は店長が休みの日で…俺が一人で閉店作業をする日だったからだ。

最後の客を見送り、ドアに掛けられた札を"閉店しました"に切り替える。暖房を切り、掃除をはじめた俺は…奥の棚の方に人影を見た。まだ一人帰っていなかったのだ。

俺は掃除を一旦やめ、レジに戻る。基本方針で客が帰るまで閉じられないことは決まっていたし。よもや"それ"とも思っていなかったから…

しばらくたってもその"客"は店のから出て行く様子がなかった。目の端で人の影が棚の裏で動くのが見える。時計を見れば既に閉店時間から30分も過ぎていた。しょうがない、俺は店のBGMをホタルノヒカリに切り替え帰宅を促した。が、それでも帰る様子はみえない。

不意に俺はそれに気がついた。影が動く、棚の裏で黒い影がふらふらと動く。どう見てもそれは"ビデオを選んでいる"動きではないのだ。ただただ、店の奥を歩いている…いや、思えば俺は歩く音を聞いただろうか。背中を冷たい風が通り過ぎた。正面ドアが風に煽られ揺れる…、そして耳に届いたのは布が床を擦るような…這いずる音。

俺はもう限界だった。鳥肌がぞわぞわとたち、棚の裏の何かに本能が恐怖している。

俺はゆっくりとレジを出た。ぐるりと覆う棚の裏へ、俺は顔を覗かせた。が、誰もいない。

奥へと向かう衣擦れの音に俺は息を呑み近寄っていく。奥は袋小路、俺は奥に向かってそろそろと歩を進めた。曲がり角の先で音が消える。

そして…俺は角からゆっくりと覗き込んだ

ブツン・・・・・・ッ

角の先、そこに黒い何かを見た気がした。だがその瞬間、目の前が闇に染まる。聞こえていたホタルノヒカリも、エアコンの音も一瞬で消えていた。

深夜の、それも明かりの消えた棚の裏。俺の横を凄い勢いで通り過ぎる何か、頬に触れたのはビニールのような感触…そして腐敗臭…。

俺はへたり込み、這いずりながら棚を頼りにどうにかレジ前まで出た。その途端だ…明かりと音楽が店に戻る。

何がおきたのかその時の俺にはわからなかった。ただただ腹の底から湧き上がる恐怖と、焦燥感。その日は掃除もせずに電気とエアコンを消し、鍵を閉め店を飛び出した。

それに気づいたのは翌日の朝だった。昨日の夜、家に帰った俺は風呂にも入らず、恐怖を紛らわすためにテレビをつけ布団にもぐりこんだ。昨日のことも…もしかしたら夢だったのかと…そう思えば気も楽になる。安直に、安全であるとホッとしてしまうものだ。だが顔を洗うために鏡の前にたった俺は愕然とした…

昨日頬を掠めた何か。俺の右頬に…カラカラに乾燥した赤い筋が手の形を留めたまま残っていたのだ。その途端、俺の中に恐怖心に染まる。

もうあれがなんであったかなどどうでもよかった。調べる気力も、好奇心もなにもかもどうでもよくなり…、ただその場で 頬にこびりついた赤い何かを洗い流すことだけが救いに思えた。

俺はその日学校を休み、仕事をサボった。そして次の日辞める旨を店長に伝えたのだった。

「○藤くんどうにか続けてくれないか。今新しい子もいなくて…、ああ給料を上乗せしてもいいから」
「いえ、もう決めたんで…。申し訳ないですけど、俺…もういけません…」
「そこを頼むよ、いや私としてもね………・・・・・・」

いやに食い下がる店長をどうにか押し留め、俺は店から去った。

あれからしばらくし、いつの間にか店は貸し店舗として出されていた。周りの客からも残念だという声が聞こえたが…俺はなんとなくわかっている。あれがいるのだ今も…。

近くに住んでいた店長も、きっと知っていたんだろう。あれ以来見ない店長はどうなったのかもうわからないが、あの場所にはもう近寄らない…今もそこに近づくと、頬に何かが触るような気がして…
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