恨みの矛先
江戸時代の話で、ある罪人を処刑場に引きずり出すと
「俺は無実の罪で処刑されるんだ」
といって暴れて手に負えない。困りきった首切り役人が上司の奉行に報告に行った。頭の切れる男として有名だった奉行は腕組みをして部下の話を聞いていたが
「わかった。では私がやろう」
といって処刑場に出て行く。それを知った罪人はますます暴れていう。
「やい、このへっぽこ役人めが。無罪の俺に濡れ衣を着せてのうのうとしやがって。呪ってやる。子々孫々末代まで必ず祟ってやるからな」
鬼神の如き凄まじい形相で睨み付けてくるのに部下は腰を抜かし
「奉行様、これほど恨みのある者を斬れば怨霊となって必ず災いをもたらします。現に先代の首切り役は怨霊にとりころされたというもっぱらの噂です。処刑はおやめなされませ」
奉行は部下が袖に取り付くのも振り払って抜刀して前に進み
「そこな罪人。晴天白日のお裁きに不服があるとの申し上だがもはや逃れられはせぬ。見苦しい悪あがきはやめて神妙にいたせ」
「何が名奉行だ。俺のような男に罪を着せ処刑しようとは笑わせるぜ。やるならやってみろ。必ず祟り殺してやる」
罪人がカッと目を見開き呪詛の声を上げるのに少しも動ぜず、
「では、お前の目の前に石があるだろう。わしを呪い殺そうと言うのなら、首が胴より離れた瞬間その石に噛り付いてみせよ。それができればおとなしくとりころされてやろうではないか」
部下は肝を冷やして止めにはいるがなんと奉行は微笑んでさえいるではないか。
「ようし、あの石だな。必ず噛り付いてみせよう。我が恨みしかと見届けよ」
奉行が刀を振り下ろすと、果たして首は宙を飛んでガブリと石に噛り付いた。みどろに髪を振り乱し両眼は虚空を睨んでまことに凄まじい生首である。
それからというもの部下は奉行の身に怖ろしい祟りが降りかかるのではないかと気が気でない様子であったが何日たとうとも一向になんの変化もない。とうとう痺れを切らして奉行にたずねた。
「奉行様、あのように恨みを呑んで死んでいった者の祟りが怖ろしくないのですか。私はあの生首を思い出すと夜も寝られませぬ」
すると奉行は笑っていうのだった。
「心配はいらぬ。あの者は現世になんの恨みも残さず成仏しておる。わしが石に噛り付けといった時からただそのことだけを念ずるようになった。余計なことはいっさい考えず目の前の石だけを見て死んだので真っ白に戻ったのだ。安心するがいい」
奉行の言うとおりだった。それ以降もまったく何事も起こらなかったという。
⇔戻る