掛け時計

俺は安アパートの2階に住んでいる。

夜中、なにやら騒がしくて目を覚ました。消防車のサイレンや鐘の音が鳴り響いている。レム睡眠の途中で目を覚ましたらしく頭がクラクラする。サイレンの音は一つではない。火事らしい。それもすぐ近所だ。

ベッドから這い出して窓を開けると、となりの家屋の少し向こうの夜空がオレンジ色に輝いて染まり、吹きあがる黒煙のなかを炎が舞っている。。焦げた匂いが風にのってただよってくる。避難した方がいいのだろうか。

隣の部屋の若い会社員も窓から顔をだしたので、俺は声をかけた。

「ずいぶん近いですね」
「うん。●●ハイツじゃないかな」

俺は通学途中の路地にある白いモルタルアパートを思い出した。

「避難した方がいいですかね」
「着替えて貴重品まとめておいた方がいいかもね」

そう言うと会社員は顔をひっこめた。

俺もスウェットを着替えて、荷物をまとめはじめた。貴重品といっても財布と貯金通帳くらいで、あとは通っている専門学校の学生証やテキスト、着替えなどをバッグにつめ込んだ。

そういているうちにサイレンの音は止み、救急車のサイレンが複数台分聞こえ、やがて外は静かになった。どうやら鎮火したらしい。

携帯を探し出して時間を見ると、4時前だった。あと3時間は眠れるな、と思い、俺はふたたびスウェットに着替えてベッドにもぐりこんだ。

翌朝、学校へ行く途中、現場の前をとおると、建物は無残な残骸状態だった。屋根も2階の床も焼け落ちて、柱や壁が黒こげで立っていた。立ち入り規制の黄色いテープが周囲に張りめぐらされている。つい数時間前まで、あの空間の中で人が寝ていたのかと思うと、火災の恐ろしさを実感させられた。

学校のあと、いつものバイトに寄り、その後に飲み会があって、気がついたら帰宅は終電の一本手前くらいだった。

駅から人気のなくなった暗い路地を自分のアパートに向かって歩き、例の焼け跡の前をとおる。街灯のうす灯りに、焼け落ちた建物がぼんやりと見える。1階の部屋の玄関跡らしい焦げたコンクリートの段のうえに、白っぽくまるい掛け時計が置いてあった。暗くてはっきり見えないが、汚れていないようだ。

俺は部屋に時計を持っていない。周囲を見回すと、幸いなことに誰もいない。

(これって、火事場泥棒だよな)

酔った気安さも手伝って、俺は内心自嘲しながら立ち入り禁止の黄色いテープをくぐった。掛け時計を手にすると、案の定、放水をあびたのだろう、時計は3時42分で止まっていた。俺は舌打ちをして、時計を戻そうとした。

そのとき、ふいに秒針がうごきだした。

(お、ラッキーじゃん)

俺は時計を小脇にかかえ、もう一度周囲を見まわして、そっとその場を離れた。

後日、隣の部屋の会社員から聞いたのだが、出元は1階の隅の部屋で、その部屋を含めた二つの部屋から、それぞれ一体づつ焼死体が見つかったそうだ。出火原因は不明だが、火元の部屋の女が焼身自殺を図った可能性もあるらしい、との事だった。

それから半年ほどたった夜中だった。夢を見ていたのかどうかも覚えていない。

深い闇の底で俺はもがき、あまりの息苦しさに目を覚ました。呼吸が荒れ、寝汗をかき、心臓がドクドク鳴っていた。何の夢も見ていない。闇の底でもがいていただけだ。部屋の闇のなかで、壁掛け時計の秒針の音だけが聞こえてくる。

一秒、一秒、時を刻む音が、カチ、カチ、カチ、カチ・・・と。俺の心臓の鼓動が、秒針の音にシンクロしている。ドク、ドク、ドク、ドク・・・、と。時計が、一秒、一秒、時を刻むごとに、俺の心臓の鼓動が大きくなっていく。ドク、ドク、ドク、ドク・・・、と。

俺は心臓病で胸をかきむしりながら死んだ祖父を思い出した。俺の心臓の鼓動がどんどん大きくなっていき、このまま破裂するような気がした。「遺伝」とか「若年性心疾患」などという言葉が脳裏をよぎり、俺はゆっくり心臓の上に右手をあててみた。

そこに、冷たい、誰かの手があった。俺の右手のひらが触れたのは、冷たく骨の細い、小づくりな手の甲だった。そして、その冷たい手の甲が裏返り、華奢な指で、俺の右手を握り返した。

俺は、わあっ、と叫んで手をふりほどき、ベッドからころげ落ちると、慌てて部屋の電気をつけた。部屋に蛍光灯の光があふれ、俺はベッドの掛け布団をはぎとった。なにもなかった。

時計を見ると、4時少し前だった。眠れなくなった。

俺はあの火災で焼死者が2名出たことを思い出した。うち一人の女は、焼身自殺を取りざたされたのだ。拾ってきた壁掛け時計は、その焼身自殺女のものだったかも知れない。

俺は恐ろしくなった。そして空が白むのを待って時計を取り外し、まだ薄明のうちに近所の寺の本堂にそれを置いてきた。

それからまた2ヶ月ほどたった。夜中、なにやら騒がしくて目を覚ましかけた。消防車のサイレンや鐘の音が鳴り響いているようだ。レム睡眠の途中で目を覚ましかけたらしく頭の中が動かない。サイレンの音は一つではない。火事らしい。それもすぐ近所だ・・・。

いや、それは夢だった。俺は暗闇のなかで目をひらいた。サイレンの音も鐘の音も聞こえない、沈黙の真夜中だ。聞こえるのはただ、時を刻む時計の音だけ。カチ、カチ、カチ、カチ・・・、と。

だが、俺は半年前に掛け時計を捨てたはずだ。その後、時計は買っていない。なぜ部屋の中に秒針の音がするのか。カチ、カチ、カチ、カチ・・・、と。

俺は漆黒の闇のなか、音の聞こえる方向に顔を向けた。捨てたはずの掛け時計が、闇のなかに青白く浮かび上がっていた。だが、その文字盤の数字は逆に並んでいる。12、11、10、9・・・、と。その逆配列の文字盤のうえを、秒針が時を刻みながら進んでいく。カチ、カチ、カチ、カチ・・・、と。11、10、9・・・、5、4、3、2・・・、と。

そして時計の秒針が"0"になった瞬間、ベッドのしたから乱れた長髪の血まみれに焼け爛れた顔の女が這い上がってきて俺の首を絞めた。叫ぼうとしたが全身が金縛りとなり、喉がひきつって声が出なかった。部屋の片隅が赤い光に染まり、小さな焔がゆれて見える。もがこうとするが金縛りで体が動かない。首を絞められ続け意識が遠のきそうになる。部屋を赤く染める焔はおおきくなり、焼けた匂いがただよってくる。

ふと、金縛りが解け、体が動いた。叫びながら部屋から飛び出す。アパートの階段を転げ落ちそうになりながら駆け下り、裸足のまま夜中の路地を走った。ふりむくと、俺の住んでいたアパートの方の夜空はオレンジ色に染まり、黒煙と焔が激しく吹きあがっていた。

俺の住んでいたアパートは全焼し、隣室の会社員を含め、6人の焼死者を出した。出火元の住居者である俺は、偽装失火・・・焼身自殺未遂によって巻き添えの焼死者を出した容疑で、現在、取り調べを受けている。
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