〜後編〜

俺はいつの間にか失神していた。気が付くと朝になっていた。鬼はいない。見付からなかった! 俺は自分の幸運が信じられなかった。朝になったらもう安心だ。何故かそう信じていた。

腰の痛みは少し収まっていた。俺はゆっくりと立ち上がり木の棒を杖にしてそろりそろりと歩き始めた。全く当てはなかったが、とにかくここら辺から離れなければと思った。

しばらく歩いている内に、とにかく下に行こうと思い、無理矢理斜面を降り始めた。へたすりゃ大怪我する恐れがあったが、鬼に食われるよりかは遥かにましだ。そう思い、斜面をどんどん滑るように危なっかしく降りていった。

それが数時間続いた。起きたのが7時頃だったがもう11時近くなっている。今だ人家は見えない。段々と払拭されたはずの恐怖感が蘇ってきた。

このまままた夕方になったらどうしよういやひょっとしたらあの家に戻ってきてしまうかも知れない…。

俺はまるで地獄で罰を受けている亡者のような気持ちになった。いつまでも山の中をさ迷い続ける罰。暗くなったら鬼が追っ手となる…。

俺は叫び出したくなるのを押さえ絶望感に飲み込まれそうになりながらも歩き続けた。

どれくらい歩いたろう。時計を見ると正午を回っていた。

俺はもうどうでもいいやとわざとらしくあきらめのポーズをとった。そうすれば反対に助かるのではないか。そんなことを思った。そしてそれは当たったのだ。

何坂(単位わからん)目かの斜面を降った時不意に視界が開けた。目に入ってきたものに俺は思わず声を上げた。

「茶畑だ!」

段々になった茶畑が一面に広がっている。

(勝った…)

嬉しさが込み上げてくる。よく見ると畑の中に人がいる。俺は

「おーい」

と言いかけて口をつぐみ今下って来た斜面を振り返った。黙って近付こう。そう思って、ゆっくり茶畑の中に入り込んだ。杖が当たって葉っぱがガリガリ音をたてた。俺は助かった。

母の実家に帰りついた時は大騒ぎになっていた。すぐ他の奴らのことを聞いたが誰も帰りついていなかった。 俺は大勢に囲まれて根掘り葉掘り訊かれた。一生懸命喋った。早く話してしまいたかった。話すことで恐怖が薄れてくれるのではと期待した。

話が鬼の件にくると聞いていた人たちの間に動揺が走るのが分かった。

「鴫沢」
「あの女」

という言葉が聞こえてきた。全て話し終わった後、じいちゃんがぼそりと言った。

「お前たちはな、鴫沢に迷い込んだんだよ」

皆鬼のことを知っているのだ。俺は直ぐ様事情の説明を求めた。あの鬼はいつからあそこにいるのか。じいちゃんはゆっくりと暗い調子で話し始めた。大勢いるのにしんと静まり帰っている。

「あそこにはな、昔ある家族が住んでいたんだ。夫婦と娘が一人な。

ところがある時夫婦が離婚してしまった。妻は出ていくとき娘を連れて行きたがったが、旦那が許さんかった。そうしてあの家には父と娘が二人で暮らすようになった。その頃はよく二人でこっちの方にも降りてきておったよ。可愛い娘だった。目がぱっちりした瓜実顔でなあ。

それからしばらくしてある夜村外れの家の戸を叩く者がいてな、家人が出てみると例の娘が一人で立っていたんだ。娘が言うには父親が途中で怪我をしたらしい。近隣の者と連れだって行ってみると落石に会って動けずにいるのを見付けた。

車に乗せて近くの病院まで運んだ。複雑骨折で当分入院が必要とのことだった。だが、金がなくてな、娘は町に出て働かなくてはならなくなった。

確かその時15かそこらだったはずだ。娘が町でどんな商売をしていたか、詳しくは知らんが想像はつく」

消防だった俺にも大体の予測はついた。

「それで少しの間は持っていたらしいが、今度は娘が体を壊してな。その頃は父親の方も大分良くなっていたから退院して二人で家に戻ったんだ。

それからまた前と同じように暮らし始めたらしいんだが、村へは降りてこんようになった。前は月に二度は顔を見せておったのにな。まあ二人ともまだ調子が悪いからなと最初はそれほど気にも留めなかったが、それが半年も続いくようになると、流石に皆心配を始めた。

そしてある時とうとう村の者が5、6人で連れだって様子を見に行ったんだよ。俺はいかんかったが、その内 様子見に行った者の一人がと戻って来たんだが、どうも様子が尋常じゃないんだ。真っ青な顔をしてな、警察を呼んでくれと言った。

訳を聞くとな、死体があったと言うんだ。まか親子がと訊いたらいや違う見知らぬ男の死体がいくつもあったと言うんだ」

「警察を待つ間詳しく話を聞いた。家にたどり着いた時、まず玄関先で倒れている男を発見したそうだ。うつ伏せで背中が血まみれだった。めった刺しにされていたそうだ。

木戸を開けるとものすごい異臭が鼻をついたらしい。中には後3体死体があったそうだ。どれも顔と言わず体と言わずめった刺しにされていたらしい。中の一体は片腕が斬り取られていたそうだ。囲炉裏には鍋が煮立っていた。

そして部屋の奥に娘が蹲っていた。はじめ娘とわからなかったらしい。それほど様変わりしていたそうだ。まるで亡者のようだと言っとったよ。

髪は半ば白くなり、痩せ痩けて目がギョロりと光っとったと。娘は何かをむさぼり食っていたそうだ。鍋で煮込まれていた何かを」

俺は寒気がした。娘は死体から斬り取った腕を食べていたのだろう。

「そうする内に警察が来てな。わしらも一緒に現場へ行ったんだ。いや凄まじかったよ。あれは正しく地獄絵図だ。未だに瞼の裏に染み付いとる。

警察の調べで男たちの正体はわかった。町のヤクザ者だった。組の金を持ち逃げして行方をくらましとったらしい。それが何であそこにたどり着いたのか。きっと娘の客で彼女から聞いていたんだろうと警察は言っていた。格好の隠れ家だと思ったんだろう。

実際そうだった。父親は満足に動けんし、娘一人どうとでもなる。きっと奴らの奴隷のような扱いを受けていたんだろう…昼も夜も。それが半年近く続き、そしてとうとう娘は狂ってしまった。鬼になってしまったんだな…。今はまだ30代のはずだ」

俺は呆然として声が出なかった。娘はその後精神病院に入れられたらしいが、数年後に退院し、母方の親戚に引き取られて行ったらしい。母親自身は既に亡くなっていたそうだ。しかし、彼女はいつの間にかあの惨劇が起きた家に戻っていた…。

それから大規模な捜索が始まり、他の子供たちは皆救出された。一番下の子はあの家の中で見付かった。鬼の姿はなかったという。暮らしている様子もなかったらしい。その子は一時的な記憶喪失にかかっていたらしく入院した。

あれはひょっとしたらあの場所に強く残っている娘の思いが見せた幻だったのかも知れない…。
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