かんひも
〜後編〜

後日談。書き込んでから改めて気になり、この土日で母の実家まで行って自分なりに調べてみました。残念ながら、爺ちゃんはすでに亡くなっているので、文献と婆ちゃんの話からの推測の域をでませんが・・・この年になって、久しぶりに辞書を片手に頑張ってしまいました。

結論から言うと、どうやら「かんひも」はまじない系のようです。それも、あまり良くない系統の。

昔、まだ村が集落だけで生活していて、他との関わりがあまりない頃です。僕はあまり歴史とかに明るくないので何時代とかはわかりませんでした。

その頃は、集落内での婚姻が主だったようで、やはり「血が濃くなる」ということがあったようです。良く聞くように、「血が濃くなる」と、障害を持った子供が生まれて来ることが多くありました。今のように科学や医学が発達していない時代。そのような子たちは「凶子(まがご)」と呼ばれて忌まれていたようです。そして、凶子を産んだ女性も「凶女(まがつめ)」と呼ばれていました。

しかし昔のことなので、凶子が生まれても生まれてすぐには分からずに、ある程度成長してから凶子と分かる例が多かったようです。そういう子たちは、その奇行からキツネ憑きなど禍々しいものと考えられていました。そしてその親子共々、集落内に災いを呼ぶとして殺されたそうです。しかもその殺され方が、凶女にわが子をその手で殺させ、さらにその凶女もとてもひどい方法で殺すという、いやな内容でした。

あまり詳しいことは分かりませんでしたが、伝わっていないということは余程ひどい内容だったのではないでしょうか?

凶女は殺された後も集落に災いを及ぼすと考えられました。そこで例の「かんひも」の登場です。

「かんひも」は前にも書いたように、「髪被喪」と書きます。つまり「髪」のまじないで「喪(良くないこと・災い)」を「被」せるという事です。どうやら凶女の髪の束を使い、凶子の骨で作った珠で留め、特殊なまじないにしたようです。そしてそれを、隣村(といっても当時はかなり離れていて交流はあまり無かったようですが)の地に埋めて、災いを他村に被せようとしたのです。腕輪の形状をしていたものの、もともとはそういった呪詛的な意味の方が大きかったようです。また、今回の物は腕輪でしたが、首輪などいろいろな形状があるようです。

しかし、呪いには必ず呪い返しが付き物です。仕掛けられた「かんひも」に気がつくと、掘り返してこちらの村に仕掛け返したそうです。それを防ぐために生まれたのが道祖神「阿苦」です。

村人は、埋められた「かんひも」に気づくと、その上に「阿苦」を置いて封じました。「阿苦」は本来「架苦」と呼ばれており、石碑に刻まれた人物に「苦」を「架」すことにより、村に再び災いが舞い戻ってくるのを防ごうと考えたのではないでしょうか。

そして、その隣村への道がちょうど裏山から続いていたそうです。時の流れの中で「かんひも」は穢れを失って風化していったようですが、例の「かんひも」はまだ効力の残っていたものなのでしょうか?

僕の調べた範囲で分かったのはこのくらいです。

最後に。婆ちゃんに、気になっていたものの聞けなかったKのその後を聞きました。

Kはあれから地元の大きな病院に連れて行かれました。坊様の力か、そのころにはすでに髪は1本も残ってなく、刃物の切り口と、中身がスカスカの腕の皮だけになっていたそうです。

なんとか一命は取り留めたものの、Kは一生寝たきりとなってしまっていました。医者の話では脳に細かい「髪の細さほどの無数の穴」が開いていたと・・・。

みなさんも「かんひも」を見つけても決して腕にはめたりなさいませんよう。
⇔戻る