現場の事故
〜前編〜

これはうちの親父が飲むと時々する話。

親父は昔、土方の親方をしていて、年に数ヶ月は地方までいって仕事をしていた。古い写真にはその頃の仲間や何かと現場で取った写真なんかが残されている。そんな中に1枚、写真の裏に名前が書かれたものがあった。7〜8人で撮った写真なのに、3人の名前だけが裏に書かれている。当時の写真だからモノクロのバラ板写真でかなり黄ばんでいる。その写真を整理していて見つけた時に親父に何故この3人だけわざわざ裏に名前が書いてあるのか聞いてみた。

「それは山(京都府下の山間部らしい)に行った時の写真や」

それは分かるが、なんで3人だけ名前が?

「山行ったら、人が減るのは仕方ない事もある」

それ以後の話はその時に聞けなかったが、後々になって酒の席で聞く事になった。

親父によると、その現場は冬という事もあってかなり過酷を極めたらしい。古い旅館だけがその時の飯場となり、ろくな暖房器具も無く雪も多くそれでも工期は迫ってきていて、皆一様に疲労と不安に苛まれていた。そんなある日、雪が少し小止みになったので宿から1時間以上歩いた現場に向かった。当然山道で車両が入れるわけもなく、今のように重機が活躍するはずも無かった。それでも皆で隊列を組んで深い雪の中を歩いて現場に着いた。

作業は山間に道路を付けるための下地になる道を作るというもので人夫が数十人で山を削っていった。屈強な男たちばかりだったという。朝から始まった作業、雪は小止みでも降り続く中での過酷な労働。なんとか早く終わらせて親父は皆を休ませてやりたかった。昼になり簡易の屋根を付けた場所で火を炊いて昼飯になった。数箇所に別れての昼飯だが、グループはそれとなく決まっていた。ん?誰か足りない。親父はそう感じたので、皆の顔を見回した。

「○○さんは他で食べてるのか?」

そう問うと、そうやないか?と返事があったという。親父はなんとなく気になりながらも飯を食べた。

日が暮れて山間はすぐに暗くなるので親父は作業を終了し全員を集めて宿に帰る事にした。これ以上は下山できなくなると判断したからだ。宿に着いた頃にはすっかり辺りは暗くなり、雪と風は強さを増していた。風呂に入り、夕飯の時間となって、皆で集まった広間に行くと様子がおかしい。

「何があった?」

親父の問いかけに誰かが

「○○さんがおらん」

と言う。昼飯の時に居なかった○○さんだった。親父はまずいと思った。夕飯もそこそこに数人で現場の近くまで探しに行く事になった。カーバイトランプの暗い明かりを頼りに、吹雪の中をそんなに長時間は探し歩く事が出来ないし、二次遭難の恐れもあったので諦めて下山してきた。すぐに電話があるような時代でもなく、朝になったら警察に届ける事にした。

翌朝は晴れて日差しが戻ってきた。数人が宿を後にして街の警察まで不明者の届け出と捜索の願いをしに行った。請け負い先にも連絡を頼んだ。親父は早くから現場に向かい不明者を捜しながら残りの者を連れて歩いた。

深くなった雪のせいもあって手がかりは無く、現場周辺での捜索も長くは出来ずそれぞれの作業場所で探しながらの作業をするように指示をした。街まで走らせた者も昼には戻ったのだが、当時の警察は、そういう不明者にはあまり構ってくれず、ふもとの村の青年団に協力を求めておくとの事だけだった。

夕方になり、作業も捜索も断念した親父はまた皆を連れて宿に向かった。帰り道でまた雲行きが怪しくなると、吹雪がすぐに襲ってきた。宿に帰ると、妙な胸騒ぎで全員を広間に集めた。

胸騒ぎは当たった。また一人足りない。これは流石に焦ったという。2日で2人、これはおかしい。まだ吹雪きが強くならないうちにと、数人づつのグループに別れて捜索をした。それがまた最悪の結果になるとは思ってみなかったらしい。

吹雪きが強くなり全員が戻った時、ひとつのグループが戻らない。しまったと親父は思ったという。しかし、程なくそのグループも戻ってきた。しかし、そのグループが遅かったのはその中の一人が途中で忽然と居なくなったから探していたのだという。

事態はどんどん悪化していく。残った人夫たちにも不安と焦りの表情が見えた。何が起こっているのか親父にも訳が分からなくなってきていた。しかし、これ以上の不明者を出すわけにもいかず、親父は捜索を断念した。

翌朝もよく晴れて青年団も加わってくれて捜索と作業が再開され遅れた作業を取り戻すためにも、青年団に捜索をお願いし、親父は作業にかかった。天候の良いうちに少しでも早く作業を進めて、早くこの現場から離れたかったのだ。

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