生霊
癌と告知されてから亡くなるまでの一年半の間、母は入退院を繰り返していた。
その頃の私は家族相手でさえ引っ込み思案だったため、母には相当の心配をかけさせてしまった。母は出来るだけ外泊できるときは家に戻り、隠れて辛そうに咳をしていることが多かった。
あるとき、明日外泊する予定だったのが駄目になった、と私に電話をくれた。体調が思わしくなかったのだろう。私はできるだけ明るい声で
「こっちのことは大丈夫だから。明日そっち行くね」
どうにか言い切って、電話を切った後に涙をこぼした。申し訳なさそうな母の声が胸に痛かったのだ。
その日の夜、父も兄も仕事で遅くなり、家には私ひとりだった。茶の間で母のことばかり考えていると、いつの間にか眠ってしまっていた。夢を見ていても考えているのは母のことだった。
家族旅行の際、唯一私が気に入って
「また行きたい」
と言い、今度は母と二人で行こうと約束した上高地。そこに母と二人でいる夢だった。母に触れている左肩があたたかい。母が包んでくれている左手があたたかい。
ふっと目を覚ますと、そばに誰かの気配を感じ、
「母さん?」
と呟いた。誰もいなかった。だけど、母がいたように感じたのだ。
次の日、母の病室に行くと、いつになく母は元気な笑みを浮かべていた。どうしたの、と聞くと、
「夢だけどね、○○と上高地に行ったの。来年こそ、一緒に行こうね」
母は楽しそうに語った。ベッドの側の椅子に座った私の頭を、母がそっと撫でた。
「目が覚める前にね、家の茶の間にいる○○が見えたの。どうしても帰りたかったから、身体から抜け出したのかな」
やっぱり母がいたのだろうか。私は言葉に詰まって涙をこぼしそうになった。
その後に、母と私が上高地に訪れることはなかった。夢で誰かに会うのは、その人が「会いたい」と思って抜け出してくるからだ、とかよく言うけど、本当にそうなのかもしれない。
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